Opus Dei

オプス・デイ

聖なるマフィア オプス・デイ

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オプス・デイは、20世紀前半にスペインで生まれたカトリック集団だが、決して単なるカルトではない。それはバチカンのみならず欧米世界全体に巨大な影響力を及ぼす経済・政治・宗教複合体である。そしてその誕生と成長の過程に横たわる秘密は、現代世界史の驚くべき真の顔を浮かび上がらせる。

第1部:「もう一つの現代史」を彩るカトリック集団

http://bcndoujimaru.web.fc2.com/archive/Holy_Mafia_Opus_Dei-01.html

(2004年4月)

 オプス・デイは、ヨーロッパや南北アメリカでは「聖なるマフィア」「バチカンのCIA」とも言われるカトリック系集団である。このシリーズでは12回に分けてこの集団の素顔と歴史、その背景を追っていく予定にしている。しかし日本ではオプス・デイの存在すらほとんど知られていないし、ご存知の方でもわずかの情報しか持っておられない場合が多いだろう。詳しい説明は次回以降に行うこととして、まず最初に、世界の数多くの書籍、新聞、インターネット情報などで広く知られている彼らの経歴と特徴を、おおざっぱにでも知っておいていただきたい。
《注記:オプス・デイは映画「ダビンチコード」に出てくる同名の架空集団とは全く異なるのでご注意を!》
 オプス・デイ(ラテン語で「神の御技」の意味)はローマ・カトリックに所属する一団体で、正式には「属人区聖十字オプス・デイ」である。ローマに本部を置き、世界中で数々のNGOや慈善団体活動、学校経営などを行っており、書籍やインターネットなどを通じた宣伝活動も積極的に行っている。しかしその開かれた姿の反面、内部での秘密主義は強くその内容の多くが謎に包まれている。
 結成は1928年、マドリッドにおいて、創始者はスペイン人ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲー(1902~1975)である。その後スペイン内戦を経て誕生したフランコ軍事独裁政府の中でその宗教・教育界におけるファシズム賛美者として成長した。そして1950年代以降はそこから多数の政治・経済のテクノクラートを輩出したが、彼らは欧米の大資本と結びついて60年代の「スペインの奇跡」と呼ばれる高度経済成長を実現し、スペインの政・官・財・軍の各界を支えた。その一方でスペイン国民に対しては保守的カトリックを強制して秩序の維持に努めるなど、1975年まで続くフランコ独裁体制の文字通り大黒柱であった。またイラク戦争で英米を最も熱心に支持したスペインのアスナール政権の閣僚には大勢のオプス・デイ関係者がいた。
《注記:オプス・デイの創始者の姓はエスクリバー・デ・バラゲルと書かれることが多いが、この「バラゲル」はカタルーニャにある地名バラゲーから来ており、私はここでは「エスクリバー・デ・バラゲー」と書くようにする。》
 オプス・デイは1950年前後から南北アメリカに進出し始め、中南米の政財界人、軍人、教会関係者の間に浸透し、70年台以降は中南米各国で米国CIAと手を携えて反米左翼政権を崩壊に追いやる主要な力の一つとなった。例えばチリでは1973年のピノシェットのクーデターを支援してその軍事独裁政権を支えた。また80年代のニカラグアやエルサルバドルなどでも親米軍事政権の誕生に寄与し、左派に協力する「解放の神学」カトリック僧の弾圧・殺害にも関与した。そして半独裁と言っても過言ではないペルーのフジモリ政権(1990~2001)、アルゼンチンのメネム政権(1989~1999)の誕生・維持にもこの集団が深く関わった。さらに2002年のベネズエラのクーデター未遂の実行者の一つでもあり、現在(2004年4月)再びCIAと呼吸を合わせて、ベネズエラだけではなくキューバのカストロ政権転覆のチャンスを虎視眈々とうかがっている。
 一方、バチカンには第二次大戦後すぐに浸透し始め、60年代の第二公会議以後に急速に勢力を伸ばし、教皇ヨハネ・パウロ2世の後ろ盾となってその膨大な資金と情報を動かす地位に就いた。もちろん1982年のいわゆる「P2-アンブロシアーノ銀行疑獄とバチカン銀行危機」にも深くからむ。そして2002年には創始者のエスクリバーを、カトリック内部のかなりの反対を押し切って、その死後わずか27年という異例の早さで聖人に仕立て上げるほどに、バチカン中枢部を牛耳っている。
 現在この集団は、ヨーロッパと中南米の政財界・言論界を陰から動かす巨大な力の一つとして認知されている。自身の発表によれば現在世界におよそ8万4千名の会員がいるが、大多数が世俗会員で、千数百名ほどの僧侶の他に集団生活を行う独身者集団がある。また世俗会員のほとんどが政治家や実業家など社会的地位の高いインテリ・富裕階層に属する。他に、思想・信条・宗教を問わない協力者あるいはシンパと呼ばれる者たちが、世界各国の王族、大富豪、企業家、マスコミ、政治家、軍人、諜報機関などに幅広く存在すると言われ、実質的にこの集団の活動に加わりそれを支えている。したがって、人数的にはさほど大きくは見えない集団だが、その社会的影響力は想像以上に大きい。
 日本との関係で言えば、2001年以来日本に隠れ住んでいるペルーのフジモリはオプス・デイの重要な関係者の一人で、また彼をかくまっている曽野綾子日本財団会長にしてもカトリック教徒でありこの団体と無縁とはいえまい。オプス・デイはCIAやマフィア組織とも浅からぬ関係を噂されており、フィリピンはその重要な活動拠点の一つであるし、東京にその経済的な拠点の一つが存在すると言われる。日本財団とのリンクがあるとすれば日本の政界とも無関係ではありえない。
 ついでにもう一つ、近頃その残酷シーンやユダヤ人との関係でさまざまに物議をかもし話題になっているメル・ギブソンの映画「キリストのパッション」の製作には、初めからオプス・デイ関係者が深くからんでいる。
 外観はざっとこんなところであろう。「こんなとんでもない集団が本当にあるのか」といぶかしく思われる方もおありだろうし、その名前をご存知の方でも「これほど多くの面を持っているのか」と驚かれるだろう。あるいは「何だ、また例の陰謀論か」と顔をしかめられる向きもあるかもしれない。何せ日本では今までまともに調査・研究の対象にならず、日本語の資料もほとんど無い状態である。しかし、ぜひ一度、Google等のインターネット検索で「Opus Dei」を調べていただきたい。外国語で書かれた収拾のつかないくらい多くの情報を前に、きっと仰天されることだろう。
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 その批判者からは、前述のような経歴から必然的に「超保守的カトリック」「カトリック極右翼」「教皇の右腕」「危険なカルト集団」などなどの非難の言葉が浴びせられるのだが、しかしこの集団は、決してそのような紋切り型の批判でとらえられる生易しい存在ではない。実は先ほど述べたようなことは彼らが関与してきた現代史の表向きの一面に過ぎないのだ。その誕生と成長過程の周辺にはいまだ明らかにされていない「もう一つの現代史」ともいうべき世界が存在している。
 現在、戦争とテロの恐怖で世界を震撼させるプロテスタント系原理主義者やユダヤ教シオニスト、およびそれに呼応するかのようなイスラム原理主義者たちの派手な活動ばかりが世間の耳目を集めがちだが、その陰で、ゆっくりとしかし着実に、もう一つの勢力、カトリック系集団が、闇の中にその顔を伏せたまま体を持ち上げつつあるのだ。
 ただその姿を見極めるためにはいくつかの点に留意しておく必要があるだろう。「すでに見えているもの」を根本的に疑い、その整合性の破れている個所や繕った跡を鋭く見抜いていく作業の中からのみ、ひょっとしてそこにある「いまだ見えていないもの」の姿が浮かび上がってくるだろうからである。
 まず、左翼主義的・進歩主義的な視点は排除されなければならない、と考える。
 オプス・デイに批判的な人々には「左翼的」あるいは「進歩的」な立場の人々が多い。これは、彼らがスペインや中南米で行ってきたことや現在欧米で中絶・避妊を頑固に否定していることなどからして当然と言える。必然的に非難の言葉として「極右」「反動」「超保守」などの修飾語が登場してくる。しかしこのような立場からの見方はこの集団の姿を見誤らせることになるだろう。例えば、1970年代のバチカン第二公会議でそれまでの独善的・閉鎖的・超俗的だったカトリックを近代化する大改革が行われたのだが、オプス・デイは自らをその「改革の先駆者」と位置付けており、カトリック守旧派から憎まれているのだ。
 また、1975年のフランコ死後のスペインは、共産党を含めた左翼政党や労働組合活動が合法化され、独裁時代の保守派政治家たちは力を奪われ、民主国家として生まれ変わったわけだが、しかしこの「新生スペイン」を誕生させたのは、実はフランコ政権を支えてきたオプス・デイ自身である。ただし、このことはスペインではタブーになっており、「右」も「左」も決して触れようとはせず、必然的に日本の「スペイン研究者」たちも取り上げないわけだが。この点は第2部で詳しくご説明するとしよう。
 このカルト集団は右・左や進歩・保守を超越した底知れなさを持っている。そもそも「左翼こそが正しい」「進歩こそが正しい」といった視点そのものが、現代の世界に関する誤った結論に導くのではないか。彼らにとっては「右」も「左」もその手の内にあるのだ。
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 次に、ナショナリズムに気を取られてオプス・デイのような超国家的な集団の姿を見誤ってはならないと思う。
 そもそも、ヨーロッパ史と近代世界史はいくつかの「超国家的な集団」によって作られてきた側面を持っている。例えば近代以前に西ヨーロッパを支配したのはローマ教会と王族である。ローマ教会は言わずとしれた超国家的集団であり、内部抗争も激しくまた16世紀以降は反抗者たちに勢力を削がれはしたが、その代わり世界中に信仰と利権の網を張り巡らせた。王族にしても、教科書歴史的には個別の国を支配し抗争を繰り返したわけだが、一方で政略結婚の連続によってヨーロッパ全土にわたる「血のネットワーク=高貴な遺伝子プール」を形作っていた。例えばスペインは、「独立した植民帝国」としての歴史と同時に、ハブスブルグやブルボンといった欧州中央の王家集団の「欧州内植民地=他世界侵略の手先」としての、二つの面を持っていたわけだが、国境線に囚われるナショナリズムの観点からではこの二面性は見えてこない。
 また、後のフリーメーソンの原型となる建築家集団、後の科学者集団の原型となる錬金術師集団、芸術家集団などは、やはりヨーロッパ全体を生きる場として国境を越えて移動し連絡を取り合っていたし、さらに近代社会を切り開いた科学者や哲学者たちはラテン語という共通言語で結ばれた超国家的な集団と言ってもいいだろう。
 近代以降はローマ教会と王族の支配は一定程度まで後退するが、ロスチャイルドやロックフェラーに代表される巨大資本のネットがそれらをも包んで世界中にしっかりとかぶさり、同様に国境を持たない共産主義(現在は消えているが)と共に歴史の主役になった。他にマフィアなどの犯罪集団もあるし、近年ではCIAなどの諜報機関も超国家的になってきたようだ。現在、こういった複数の超国家的な集団が水面下で複雑に絡み合いながら現代史を推し進めつつあるように思える。
 同時にまたナショナリズムの立場から「ある超国家的な集団が我が国を転覆しようと狙っておりその中心がユダヤ人である」と解く、いわゆる「陰謀論」の筋書きは、このような欧州の歴史の中から必然的に出てきたといえる。もちろん近代以降では、始めから国を持たないユダヤ人の存在は重要ではあるが、しかしそれは、超国家的な集団に注目し言及する者を「陰謀論者=ネオナチ」として排斥し現代史の重要部分を隠蔽するために、ある種の煙幕として利用されている面が強いのではないか。
 私はナショナリズムとは無縁であり、そのような「被害妄想的陰謀史観」の立場は取らない。しかしオプス・デイが20世紀前半という新しい時期に創立され、わずか60年足らずのうちにローマ教会内と欧州・南北米で大きな力を持つ超国家的集団にまで成長した陰には、何らかの巨大な勢力の、未だ明らかにされていない関与があったことは間違いあるまい。したがってオプス・デイの調査・研究は、同時にその奥にある現代史の隠された部分に迫っていくことにつながる重要な作業だと思う。
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 最後に、人間の内面から出てくる力と方向性が、現実を動かし支配する側面を持つことを、無視してはならない、と思う。
 左翼的、進歩主義的なものの見方からすると、宗教は「体制補完物」、被支配者に擬似的な救済を与えて支配体制を補完する「麻薬」に過ぎない。確かにこの観点からでは、常に宗教は「保守的」「反動的」「右翼的」であり、また早晩滅びるべき迷妄に過ぎない。
 ところがオプス・デイは始めから社会的エリート・知識人・支配階層の集団なのだ。彼らが政治的な変化に絡む場合は決まって「上からのクーデター」の様相を呈する。この点はそういった宗教観からでは全く相手にできない性質のものである。
 また現実主義的な観点からは人間の持つ「内面の働き」などはほとんど無視されるだろう。人間の内面は、外面、つまり現実的な物事の量や動きなどの一種の関数とみなされ、世界を調べ分析する際には実数値として評価可能な変数のみが取り上げられる。したがって容易に明確な形をとらず非論理的な性格の強い人間の内面は、現在の言論界ではほぼ相手にされないだろう。宗教など、この観点からはせいぜい組織形態や資金の流れなどの合理的に把握しやすいものだけが問題とされ、人間の内面にあるものが外を動かしていくメカニズムなどは関心の対象にはなりにくい。そればかりか、人間の意志的な面を強調する見方は「陰謀論」として退けられる傾向すらあるようだ。
 しかし世の中は良くも悪くも人間が作るものである。現実が人間を理想へと導くと同時に理想が現実を動かし、現実が人間を狂気へと駆り立てるのと同時に狂気が現実を推し進めていく、という面もまた正当に取り扱われるべきだ、と私は思う。人間が利害関係だけで動く、つまり人間の内面が外部にあるものの単なる関数である、とする考え方こそが、近代の支配的な超国家的集団がばら撒いた迷妄、現代の人間のために用意された「知的なワナ」の一面を持っている、と思う。
 私は幸か不幸か社会的エリートになったことがないので想像する他はないが、この世の支配的な階層こそ、圧倒的な現実の圧力に拮抗しさらにそれを作り変えていくほどの内面の力を維持するために、宗教(あるいはそれに類する精神的支柱)を必要とするのではないか。その中心が神であろうが、悪魔であろうが、鰯の頭であろうが…。研ぎ澄まされた観察力、冷徹な計算や一貫した合理精神と同時に、自らの行動を「神聖なるもの」とする狂信的なまでの目的意識が無ければ、決して自らを維持できないだろう。
 人間の内面から出て来る力と方向性を軽く見た場合、オプス・デイのような宗教集団のあり方と機能を見誤るばかりか、それに対抗する手段を見出すことも不可能になるだろうと思う。この点もまた、現代史を考える際に見過ごされてきた重要な側面ではなかったのだろうか。
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 上記の三つの視点にしたがってオプス・デイの素顔を暴いていく作業は、同時に、我々が「これが現代史だ」と思っている世界の姿の裏にある「もう一つの現代史」を明らかにし、「なぜ我々が今ここにいるのか」という根源的な問いに対する解答を探ることにつながる作業だ、と私は確信する。
 次回は「スペイン現代史の不整合面」と題して、主にスペインを舞台にして、1928年のオプス・デイ結成からフランコ独裁政権内部での働き、バチカンと中南米への進出、フランコ時代の終焉・新生スペインの誕生などの1970年代までの動きの中に、思いがけず口を開いている現代世界史の深淵についてご説明しよう。

第2部:スペイン現代史の不整合面

http://bcndoujimaru.web.fc2.com/archive/Holy_Mafia_Opus_Dei-02.html

(2004年7月)

[自ら姿を消した「支配者」のミステリー]

 フランシスコ・フランコによる過酷な独裁政治が1939年から36年間も続いたスペインでは、それを根底から覆す激しい自由化と民主化が、1975年の独裁者の死からわずか3年のうちに法と制度の改革だけによってさしたる混乱も無く実現された。同様にサラザール独裁政権に苦しんだ隣国ポルトガルで、1974年のクーデターの後、長年にわたる政治的・経済的混乱が続いたのとは好対照である。
 スペインのこの大変化は多くの謎を投げかける。フランコの事実上の後継者カレロ・ブランコがETAの爆弾テロによって殺害された影響が大きいにせよ、独裁政権を支えてきた保守派たちがいとも簡単に力を失い、また彼らと繋がってきた軍がこの変化に対して完全な中立を守ったのはなぜか。また、長年地下活動を続けて共和制樹立を目指してきた社会労働者党(以後、社労党)と共産党があっさり立憲王制を認めてしまったのはなぜか。誰の力でどのようにしてこのような大変化が起こりえたのか。
 様々なことが言われる。60年代後半からの労働者や学生と民族主義者の反独裁運動、国王フアン・カルロス1世とその腹心のアドルフォ・スアレスの政治手腕、保守派内部の分裂と混乱、十分に近代化を果たした経済システム、共産党や社会労働者党に代表される左翼政党の中道化の傾向、経済的にゆとりを持てるようになっていた国民の冷静さ、などなど。しかしそのどれを、あるいはすべてを考慮に入れても、ちょうど「大日本帝国」が戦争や混乱を経ずに「日本国」に、しかも内部からわずかの期間で変化する、それに匹敵するような出来事を説明し切るのだろうか。
 最も奇妙なのはオプス・デイである。1950年代後半からフランコの死の75年までスペインの財界と官僚機構、言論界、教育界、軍部を掌握、カレロ・ブランコを先頭にして多数の閣僚を配置し、一方で保守的カトリックを国民に強制して、事実上の「支配者」として独裁国家を運営してきたこのカトリック集団が、その大変化とともに国家経営の表舞台から忽然と姿を消したことである。ソ連圏崩壊後の共産主義勢力のように存在基盤を失ったためではない。独裁時代に彼らが築き上げた経済システムは多少の修正を経ながらも基本的にそのまま生き残り、今日まで財界、官僚、軍部、マスコミの中で、その力は増大しこそすれ決して衰えていない。しかし70年代後半の大変化の際には何の後腐れも無くあたかも自ら進んで表舞台から退場したような印象さえ受ける。
 内外の歴史研究者は、すでに「歴史」になってしまったフランコ時代についてはともかく、この大変化以後の現代史で「オプス・デイ」の名に触れることはない。またこのカトリック集団を批判する文章は無数にあるが、その多くが、この教団の「極右・超保守的」体質、フランコ時代の思想弾圧、および70年代から80年代に中南米諸国でCIAと手を組んで行なった政治謀略に集中しており、せいぜい2000年に誕生した第2次アスナール政権に言及するのみである。
 しかし私は、この1970年代後半のスペインの大変化は、現代ヨーロッパ史最大のミステリーの一つではないか、と思っている。そしてこの大変化の中にこそ、バチカンを支配し中南米で政変を演出し、今後の世界支配を企む強力なカトリック集団オプス・デイの本質が見えているような気がしてならないのだ。

[通説スペイン現代史:フアン・カルロスとアドルフォ・スアレス]

 1931年のスペイン革命により第2共和制が発足、国王アルフォンソ13世は退位・亡命した。彼とヴィクトリア英国女王の孫でバッテンベルグ公ハインリッヒの娘のユージェニーとの間の息子が、フアン・カルロス1世の父親、バルセロナ伯ドン・フアン・デ・ボルボンである。ドン・フアンは英国海軍に入隊後、ローマで仏ナポリ家の両シシリア王女マリア・デ・ラス・メルセデスと結婚、スペイン内戦中の1938年(フランコ政権誕生の1年前)に生まれたのがフアン・カルロスである。
 ドン・フアンは、スペイン国内の王党派残党との連絡を保ちつつも同時にフランスに亡命中の社会主義者たちとも接触し、フランコ政権打倒・立憲君主制樹立の道を探った。ドン・フアンはフランコを毛嫌いしていたし、フランコも王室を遠ざけ無視しており、両者の間で和解の余地は無いように思えた。しかし複雑な経緯の後、1948年に、王子フアン・カルロスをマドリッドで養育させフランコ亡き後に国家の首長にするという約束の元に、フランコと妥協することになった。
 さて、1928年に誕生したカトリック系集団オプス・デイ(神の御技:創始者はホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲー)はフランコ政権とともに成長し、その活動の初期から多くの分野の優秀な学生の間に浸透した。50年代に入ると、エスクリバーの盟友で政権内の実力者カレロ・ブランコの引きもあり、政府機構内に強力なテクノクラート層を形成し始めた。そして冷戦中に米国・西欧資本の流入が本格的に始まると、ロペス・ロドを中心にしたオプス・デイのテクノクラートたちはまさに「水を得た魚」であった。60年代の「スペインの奇跡」と呼ばれる日本のそれに匹敵する経済成長は、貧困にあえいでいた国民に精神的な余裕を与えた。さらに他の欧米諸国からの観光客とその文化に直接触れ合うにつれて、反独裁の動きが国のあちこちで始まった。
 唯一の合法政党でファシズム運動のファランヘ党は「国民運動」と改名したが政権内で次第に勢力を弱めていった。フランコの老齢と肉体的衰弱が明らかになった60年代に、体制内権力闘争を経て事実上の指導者となったのはオプス・デイのカレロ・ブランコであった。彼自身は頑固な保守主義者だったが、彼が信頼する脱イデオロギー化したテクノクラートたちによって成し遂げられる経済成長は必然的に様々な制度改革を必要とせざるを得なくなっていた。一方、1969年に王子フアン・カルロスは国会で正式にフランコの後継者・次期国家元首として承認された。
 この時期にはエレロ・テヘドル、ラファエル・カルボ・セレルなどの体制内の改革派も登場した。特にカルボ・セレルは新聞などの言論機関を通して、保守派から「裏切り」と目されながら体制の改革による自由化を目指した。一方でキリスト教左派、地下活動中の社会主義者や共産主義者、またバスクやカタルーニャの民族主義者の動きも活発になり、フランコ体制は急激にその求心力を失っていった。そして73年にカレロ・ブランコがETAに暗殺されると、事実上独裁政権を支える実力者は不在となった。
 1975年11月のフランコの病死の後、国王として正式な国家元首となったフアン・カルロス1世は、ほとんど無名だった法務テクノクラート出身の若きアドルフォ・スアレスを首相に指名した。以後、国王とスアレスのコンビは凄まじい勢いで独裁体制の一掃と民主政治の確立を果たしていく。
 就任直後のスアレスは、地下活動中の社労党の書記長で後に首相となるフェリペ・ゴンサレスと秘密会談を持ち、またパリに亡命中の共産党書記長サンチアゴ・カリリョと話し合うために使者を派遣した。一方で国王フアン・カルロスは腹心フェルナンデス・ミランダらを使って右派の有力者に徹底的な根回しをして反対派を押さえ込み軍部の中立を確保した。こうしてスアレスは1976年暮れに政治改革法案を議会で通し、国民投票で圧倒的多数の賛成を得た。
 続いて公安裁判所の廃止、社労党の合法化、国民運動の解散、すべての労働組合活動の承認、そして共産党の合法化と、瞬く間に自由化・民主化が進められた。続く77年6月の第1回総選挙では、スアレスの民主中道連合が過半数には満たないが第一党、社労党が第二党となった。翌年の78年12月6日に新憲法が発布され、フアン・カルロス1世は「象徴」となって政治の舞台から退いた。
 このようなフランコ体制内部から表れてきた急激な改革に、過去との決裂=共和制樹立を目指していた左翼政党は完全に虚を突かれ、右派は自由化と民主化を、左派は立憲王制を、それぞれ認めざるを得ない流れを作られてしまったのだ。
 さらに注目すべき事件がある。1981年1月にスアレスは突然辞任しソテロが首相になったが、その直後の2月23日、軍の一部である国家防衛隊(グアルディア・シビル)のアントニオ・テヘロ中佐が200名ほどの部下を率いて国会を占拠し、それに呼応してバレンシアの軍司令官によって非常事態宣言が出される、という事件が起こった。国王フアン・カルロス1世は即座にテレビで国民に平静を呼びかけ軍に忠誠を誓わせて、次の日にテヘロは投降しアルマダ将軍ら数名が首謀者として逮捕された。
 この「クーデター未遂事件」が国民に与えたショックの大きさは言うまでも無い。そして次の年の総選挙には獄中からテヘロが立候補し、独裁政権の亡霊に危機感を募らせた国民はこの82年総選挙で社労党に圧倒的な支持を与え、その後14年間続くゴンサレスの社労党政権が始まった。こうしてフランコ時代の名残は見事に消えてなくなりスペインの民主化は完成されて、安定した立憲君主制が続くこととなったのだ。
 以上が一般的に伝えられるスペイン現代史のあらましである。

[オプス・デイによる「現代史」の演出]

 スペイン現代史を紹介する資料のほとんどが、「独裁政治に対する民主主義の勝利」としてこの変化を紹介する。しかし何かが不自然だ。独裁時代に国中に張り巡らされた支配構造が、まるで優秀なデザイナーによってあらかじめ計られていたかのように、スムーズに新しい体制に置き換えられていくのだ。また81年のクーデター未遂事件は、あたかも社労党政権確立のために準備されていたかのように見える。そもそも、政治の表舞台に突然現れ巨大で決定的な働きをした上で、わずか3年間で彗星のように政治面から去っていった国王フアン・カルロス1世とは一体どんな人物なのか?
 ここで、以上の「歴史」と同時進行した別のラインを追っていこう。
 第2次大戦の最中の1943年10月、フランコ権誕生のわずか4年後、スイスにいたドン・フアンを訪ねてきた男がいる。これが先ほど60年代の「体制内改革派」として紹介したカルボ・セレルなのだ。彼はオプス・デイの初期からの会員で、創始者エスクリバーの最も信任の厚い人物の一人である。この会談の内容まで知る由も無いが、フランコの信頼を勝ち得たこの教団は一方で王政復古を画策していたのだ。
 また1946年にエスクリバーは、スペインを盟友カレロ・ブランコやロド、セレルなどの主要会員に任せ、バチカンに潜入すべく本拠地をローマに移す。
 48年にフアン・カルロスがフランコの「後継者」と約束された後、10歳を過ぎたばかりの王子の養育係を任せられたのはオプス・デイの僧侶フェデリコ・スアレス(後に王室付きの主任司祭となる)、またソフィア王妃(ギリシャ王パブロ1世の娘)の秘書となったのはやはりオプス・デイ会員のラウラ・ウルタド・デ・メンドサである。
 一方でオプス・デイはカレロ・ブランコを中心にして、反対派のファランヘ党(国民運動)などを徐々に追い落としていく。またセレルとともに体制内改革派として活躍したテヘドルもオプス・デイのメンバーである。さらに驚くべきことに、フランコ死後にフアン・カルロス1世と協力して急進改革を成し遂げたあのスアレスやミランダさえもオプス・デイであり、おまけに81年のクーデター未遂事件の首謀者として逮捕されたアルマダ将軍までがオプス・デイのメンバーだったのである。特にアルマダは国王と極めて近い筋にあった。
 これでもうすべて明らかだろう。
 改革の功労者スアレスとオプス・デイを結びつけることは、どうやらスペインでは「右」にとっても「左」にとってもタブーらしい。しかし彼の息子アドルフォ・スアレスJr.はオプス・デイ系の学校の出身者で(オプス・デイの世俗会員には子供を教団の学校に入れる義務がある)、現在、同窓生で前首相アスナールの娘婿アレハンドロ・アガッグ(オプス・デイ)と並んで、国民党の若手のホープである。また2004年3月に死亡したスアレスの娘が2度の乳がんの大手術を受けたのはナバラ大学(オプス・デイ経営)医学部だ。スアレスがオプス・デイ会員であることは「公然の秘密」なのだ。
 スペイン現代史はみごとに演出されていた。独裁政権を支え強化し、経済界、官僚層、保守派政治家、軍部に圧倒的な支配力を誇っていたこのカトリック集団こそが、独裁政治を崩しその名残をも一掃した激変の本当の主人公だったのだ。言ってみればある種の「上からのクーデター」に他ならなかったのである。
 一方では同時期に中南米でCIAと手を組んで反共軍事独裁政権を次々と作っていくわけだからずいぶんと奇妙な話ではあるが、紛れも無い事実である。彼らは、「右・左」「保守・進歩」といった対立概念を超えている。それらは総て彼らの「手の内」にあるのだ。そして、このフアン・カルロス1世とその周辺が発する政治力の恐ろしさを知っていたからこそ、ゴンサレス社労党政権は諜報機関CESID(後のCNI:国家中央情報局)を使って国王の身辺を常に見張っていたのだ。
 ここまで来ると、1973年のETAによるカレロ・ブランコの暗殺も、ひょっとすると彼らがETAと警察を操って実行したのではないか、とすら思えてくる。奇妙な事件だった。ブランコは教会のミサに決まった時間に決まった道を使っていたのだが、その道に面したアパートの地階を借りたETAメンバーがそこから道路の下に穴を掘って爆弾を仕掛け、車もろともブランコを吹き飛ばしたのだ。警察は「管から漏れた都市ガスの爆発」という見解を出して捜査を遅らせ、彼らが逃げおおせる時間的余裕を作った。漏れたガスが道路の下から爆発するだろうか? しかし、ともかくもブランコ暗殺によって「改革」の幕が切って落とされたわけである。古くからのオプス・デイ関係者であり創始者エスクリバーの盟友は、この教団のために命を捧げたのであろうか。
《注記:2004年に機密解除されたフランコ政権の諜報資料によれば、ETAを使ってブランコを暗殺させたのは米国CIAである。当然だが、この当時ラテンアメリカでCIAと手を組んでいたオプス・デイがそのことを知らなかったはずもあるまい。CIAの意図は様々に推測されているが、自由化とNATO加入を拒み旧体制を死守しようとしていたブランコは、西側世界にとって危険な存在だったのではないか。》
 なお、国王フアン・カルロス1世はローマ・カトリックの上級秘密組織、マルタ騎士団の騎士だ、という説もある。オプス・デイの上層部とマルタ騎士団とはかなり重なっているようであり、欧州の王家のネットワークから見てもオプス・デイの背後にはもう一段大きな権力構造があってもおかしくないが、しかしここではそこまで話を広げる余裕は無い。いずれにせよヨーロッパは奥が深い。「雲の上」の世界を下界から窺い知ることは非常に困難である。しかし感覚と理性と観察眼を研ぎ澄ませば、雲の切れ間を通してその上にいる「チェスのさし手」の指が図らずも見えてくる場合があるのだ。
 また、カレロ・ブランコ暗殺から82年の社労党政権誕生までの経過には、2004年3月11日のマドリッド列車爆破事件から14日の総選挙での社労党勝利までの事態を髣髴とさせる部分もある。この事件の裏にもやはり「神の御業」があったのだろうか。真相は闇の中、いや「雲の中」である。

[第2部まとめ]

 バチカンの支配者オプス・デイは、恐らく今後の欧州、中南米そして中近東、ひいては全世界の情勢に大きな影響を与え得る集団である。それだけに彼らの本当の姿を見極めておく必要がある。独裁政治のイデオローグ、超保守的カトリック、バチカンの金権支配、中南米での極右的活動といったイメージだけでは対応不可能であろう。彼らはそのような「舞台の上の俳優」というよりはむしろ「舞台裏の演出家」なのだ。
 次回は『ネズミの後を追って』と題して、第2次大戦直後のバチカンを通したナチス残党の南米逃避行とCIAの誕生の秘密、そしてそれとオプス・デイの疑わしい関わりについて突っ込んだ探求を行なう予定である。

第3部:ネズミの後を追って

http://bcndoujimaru.web.fc2.com/archive/Holy_Mafia_Opus_Dei-03.html

(2004年10月)

[バチカン・ラットライン]

 ドイツの敗北がすでに避けられぬものとなった1945年3月、スイスで米国OSSのアレン・ウエルシュ・ダレスとナチSSのカール・ウォルフが、敗戦後のドイツの処理について秘密交渉を行った。このダレスは後にCIA長官(1953~61)となる人物だが、30年代から40年代にかけてヒトラー政権と盛大な取引を行っていたニュージャージー・スタンダード・オイル(後のエクソン)の役員であり、また兄弟のジョン・フォスター・ダレス(ロックフェラー家の一員、後の米国国務長官)と共に法律家としてロスチェイルド系シュローダー銀行(ドイツ:ナチスを支えた金融機関の一つ)の法律顧問を勤め、同様にナチスとつながるITTとも深い関係を持っていた。なおCIAは1947年にOSSを母体に創出されたが、ダレスは最初からその中心人物だった。
《注記:ダレス兄弟とナチスの関係については『イスラエル暗黒の源流 ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム』にある「第7部:ナチス・ドイツを育てた米国人たち」を参照のこと。》
 この交渉の中で一つの重大な決定がなされた。大量のナチス幹部を、バチカンを通して中南米、米国、カナダ、オーストラリア、中東などの土地に逃がす、というものである。この「バチカン経由の逃げ道」を俗に「ラットライン」と呼ぶ。一応その語感から「ネズミの通路」とでも訳しておこう。そしてその「通路」を通って3万人とも5万人とも言われるネズミどもが逃亡した、といわれる。その中には、後にイスラエルに連行されて処刑されるアドルフ・アイヒマン、「リヨンの屠殺屋」クラウス・バルビー、またヨゼフ・メンゲレなども含まれる。
 これは一面では米ソによる「人材引き抜き競争」の一環であろう。ヒトラー政権は「世界支配・改造計画」とも言えるアイデア実現のために必要な人材とノウハウを集積していた。例えば、ベルリン陥落後にソ連がロケット開発の優秀な技術者を多数連行したことは有名である。一方米国はフォン・ブラウンなどのロケット研究者の他に、ソ連と中東に対する諜報活動の人材とそのノウハウを確保した。それが後のゲーレン機関やCIAのスパイ網につながることはよく知られている。いってみれば「第3帝国」は米国とソ連に引き継がれたのだ。
 移送されたのは人間だけではなかったようだ。ナチス・ドイツ所有の大量の金塊が運び出され、そのうち400トンはスペインに運ばれた、といわれる。それ以上に重要だと思われるものがモルヒネである。現在の南米からのコカイン流通ルートの元は、CIA保護下のマフィアとナチ残党によるモルヒネ取引の経路である可能性が高いからだ。その他、精巧な「偽英国ポンド札」もあったようだが、これが「本物のポンド印刷機」を入手してのものなら、当然そこにはロスチャイルド家と英国諜報機関が絡むだろう。そういえば現代でも、北朝鮮の極めて精巧な「偽ドル札」は本物のドル印刷機を使用して作られたのでは、と疑う向きもある。これが事実でなくても、どうやらドイツ製の印刷機を使用してのものらしいから、これもまた面白い取り合わせだ。
 それにしてもここでなぜバチカンなのか。一般的にはソ連圏との対決を見込んで反共の方針で一致した米国-バチカンの共同作戦、ということになっているが、ただそれだけでは説明し切れない不可解な面が多く残る。当時の教皇ピウス12世はドイツで教育を受けた人物で、ナチスとの関係には並々ならぬものがある。またこの「ネズミの通路」には、ナチスやファシストと米国諜報機関のほかに、スペインのフランコやアルゼンチンのペロンといったカトリック諸国の軍事独裁者、マフィア組織、80年代にP2事件で華々しく登場する裏組織の人物たちまでが複雑怪奇に絡んでいるのだ。
 もちろん資料として表に出るような事ではないが、IOR(宗教活動協会:俗に言うバチカン銀行)はマフィアやCIAなどの資金洗浄の場であるとささやかれる。バチカンがスイスと並ぶ「金融大国」になったきっかけは、ムッソリーニとの間で1929年に締結されたラテラン条約である。教皇庁はバチカンとして独立し、イタリア政府から教皇領喪失の補償として毎年多額の資金提供を受け(これは1984年まで続いた)、イタリア国内にあるそのバチカン所有の施設は(後にはその投資をも)非課税となる権利を手に入れた。ムッソリーニ時代のイタリア国内から流入した資金だけでも当時の金額で10億ドルに上ると言われ、やがてはナチス・ドイツが国民から徴収した「教会税」の一部もバチカンの懐に入ることになる
 1942年にはIORが創設され、以来バチカンは戦中から戦後にかけて、イタリアだけでなくドイツ、スペイン、スイス、米国等の大企業・金融機関、そしてCIA、マフィアといった組織と深いつながりを持つようになった。「ラットライン」は彼らすべての利益にも合致していたのだ。
 当然のことだが、こういった事柄に関連する正式な公文書としての資料が公開される可能性は極めて小さいだろう。しかし「人の口に戸は立てられぬ」である。様々な方面で語られた「事実」が、その後に起こった多くの明らかな出来事と重要な整合性を持つ場合、一つの有力な仮説として採用すべきだろう。

[マドリッドからローマへ]

 話は飛ぶが、1928年にスペインの首都マドリッドで奇妙なカトリック系宗教団体が産まれていた。その名はオプス・デイ、創始者はホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲー(1902~1975:以下、エスクリバーと表記)である。カトリックの修道士であり同時に法律を学ぶ学生でもあったエスクリバーは、通常のカトリック僧が行う貧者救済のような事業にはさして興味を持たず、ひたすら中・上流家庭出身の優秀な学生をつかまえては自分の信念を説いた。その中心は、『人間は自分の職業活動で完璧な成功を収めることで神の恩寵を受け、俗世の生活を捨てることなく聖なるものとされる』という、従来のカトリック思想とはおよそかけ離れたものである。(オプス・デイの思想についてはいずれ号を改めて《注記:第10部、第11部、第12部で》 ご紹介したい。)
 1932年に起こったスペイン革命と第2共和制の誕生、36~39年のスペイン内戦は、エスクリバーを反共の闘士に鍛えていった。内戦中は主にフランコ軍参謀本部の置かれたブルゴスで過ごす。後にフランコ独裁政権の最高幹部になるカレロ・ブランコとの出会いはこの過程においてである。またそこでエスクリバーのカルト集団はフランコとその側近たちの信頼を得、軍事独裁政権誕生後に宗教・思想界のみならず教育、マスコミそして産業界にその網の目を広げていくことになる。
 エスクリバーは大戦後の1946年にローマに移り住み、オプス・デイの本部もそこに新たに作ることになる。その3年前の1942年(IOR創設の年!)に側近のホセ・オルランディスとサルバドル・カナルスが、また43年には最大級の幹部アルバロ・デ・ポルティーリョがローマに行ってその下準備をした。本部のローマ移転以後、オプス・デイはバチカン内および世界の多くの国々で強大な勢力を誇る集団に成長していくわけだが・・・、しかし何か奇妙だ。
 いくらスペインの独裁者に取り入ったとはいえ、一体どれほどの金脈と人脈を持っていたというのか。創立間もないころのオプス・デイは常に資金不足にあえいでいた。初期の会員の身内が宝くじで大金を当てたとたんにエスクリバーから入信の勧誘が来た、という逸話まである。また彼は教団の資金が底を付くたびにブルゴスのカレロ・ブランコに会って無心を繰り返していたのだ。学生の会員たちが卒業し社会的地位を得るにつれて教団の資金繰りにも余裕が出てきたが、その程度でローマに乗り込むなど気違い沙汰だろう。古株の陰謀組織のような種々の集団がうごめき伏魔殿とまでいわれるバチカンに、没落・荒廃した貧乏国からやってきた新参者がいきなり挨拶しても、おそらく鼻も引っ掛けられまい。しかしオプス・デイに関しては異なっていた。
 そればかりではない。すでに1943年には、幹部のカルボ・セレルが亡命中のスペイン王位継承者ドン・フアンとスイスで(またしてもスイス!)秘密会談を持ち、将来のスペインの体制変革について語り合うほどに政治的にも実力を持っていたのだ。欧州の王家連合をバックにし教皇庁にも顔の効くこのブルボン家当主はフランコを根っから嫌っていたのだが、そのフランコに認められた程度の得体の知れぬ集団の一員に会って、こともあろうに自分の息子とスペイン王家の将来を託す、そんなことがありうるだろうか。何かが変だ。何かが隠されている。エスクリバーがオプス・デイの本拠地をローマに移す1946年までに一体何が起こっていたのか。

[ヨーロッパの闇に潜む男]

 話を第2次大戦中のイタリアに移そう。1943年7月に連合軍はシシリー島に上陸するのだが、それは米国軍が、ムッソリーニから圧迫を受けてファシスト党に恨みを持っていたシシリーのマフィア組織に、米国マフィアのドンであるラッキー・ルシアーノを通して十分な根回しをした結果だといわれる。米国諜報機関はやがて麻薬取引を通してマフィアと緊密な関係になるが、そのきっかけはこの辺にありそうだ。
 以後、ムッソリーニは追い詰められていくわけだが、その側近にリチオ・ジェッリという男がいた。彼は1936年のスペイン内乱勃発時には黒シャツ隊としてスペインに派遣され、フランコ独裁政権樹立に多大の貢献をした。そして大戦中はSSヘルマン・ゲーリング部隊の常駐員となり、終戦直後には米軍諜報部隊と協力して、クロアチア人カトリック僧ドラゴノビッチと共に「バチカン・ラットライン」の作業に当たった。そして冷戦中にはCIA長官アレン・ダレス(ラットラインを計画した人物!)によって提案された反共ネットワーク「ステイ・ビハインド」の中でのキーパーソンの一人となる。またフランコだけでなくアルゼンチンのペロンとも親しく、一説ではペロンの方がジェッリを崇拝していたそうだ。当然のことだがペロンはラットラインで南米に逃れたナチ党員を全面的に受け入れている。
 この男は後にイタリアのフリーメーソン組織P2の頭目であることが発覚し、バチカン銀行(IOR)を危機に追い込むアンブロシアーノ銀行倒産疑惑(1982年にはP2メンバーで頭取のロベルト・カルビがロンドンで謎の「自殺」をとげた)および多くの殺人に関連して、1998年に逮捕された。
 このヨーロッパの、いや世界の闇に下半身をどっぷり漬けた男は、実はオプス・デイとは切っても切れない縁を持つ。P2事件では、死んだカルビや、その投資者の一人でマフィアとの関係も深いミケレ・シンドーナとともに、ジェッリがイタリア社会の裏表でオプス・デイと密接につながっていたことが公になっている。またジェッリの親友ペロンはオプス・デイが支援した独裁者の一人であり、1973年に彼が大統領に復帰する際にマドリッドに保管されていたナチスの金塊がアルゼンチンに移送された裏にオプス・デイがいたのは明白だ。同じ年にチリではピノシェットの軍事独裁が始まる。
 またその一方でジェッリは、ソ連のKGBとの強いつながりをも持っていたともいわれる。KGBといえば、2001年3月に十数年間にわたってKGBのスパイを努めた容疑で逮捕された米国FBI職員ロバート・フィリップ・ハンセンはオプス・デイのメンバーであり、その上司で同年6月に辞任したFBI長官ルイス・フリーもオプス・デイ関係者であることが極めて濃厚だ。逆にオプス・デイの操り人形である教皇ヨハネ・パウロ2世(ポーランド出身)はソ連と共産圏の解体を演出した最重要人物の一人であり、1989年12月にゴルバチョフとブッシュ(父)がマルタ島で開いた冷戦終結の会談の仲介役がバチカンだった。オプス・デイがソ連内にも隠密のコネクションを持っていたことは確実であり、恐らくその橋渡しをしたのはジェッリではないか。
 何よりもジェッリはスペイン内戦時にフランコと共にいたのだ。何一つ資料は残されていない(少なくとも私は現在までに出会っていない)が、その際にオプス・デイ創始者のエスクリバーやその幹部たちと出会わなかった、と考える方が不自然だろう。もちろん彼以外の黒シャツ隊メンバーの中にも、バチカンに通じる者や種々の資金ルートに精通する人間がいたであろうし、ひょっとするとナチスから派遣された人員がこの教団と接触した可能性すらある。
 実際にエスクリバーはヒトラーとムッソリーニを熱烈に賛美していた。また彼らの方がこの教団の持つ一風変わった思想に興味を持ち共感を覚えたのかもしれない。もちろんこれらは私の想像でしかないが、オプス・デイ本部のローマ移転とそれ以後の爆発的な発展の謎は、まずその出発点を疑うことでしか解けないだろう。またそのような仮定をすることで初めて、後のCIA、中南米の政財界や軍部、マフィア集団やP2などの裏社会とオプス・デイとの緊密な関係も説明可能になる。
 さらに、ローマにはカトリック系上級秘密組織であるマルタ騎士団の本部もある。慈善団体を装うこの謎の集団は、欧州の王室や旧ナチ関係者、欧米の政治家や資本家、CIA関係者などの中に幅広くメンバーを持っているといわれる。ただこの手の話はどこまで信用してよいものか困るのだが、各方面に相当に圧力の効く団体であることだけは間違いなさそうだ。もしも、オプス・デイが1942年にローマに先遣隊を送った際に、ジェッリなどの手引きでそのようなヨーロッパの深奥にまで侵入していたと仮定すれば、王家連合の重要メンバーでありスペイン王室・ブルボン家継承者のドン・フアンとサシで話ができたことにも不思議はなくなるだろう。

[ネズミの後を追って]

 オプス・デイは第2次大戦直後からスペイン以外の国々に急速に進出していった。1945年にはポルトガルに、46年にはイタリアとイングランド、47年にフランスとアイルランド、49年にメキシコ、50年には米国、チリとアルゼンチン、51年にコロンビアとベネズエラ、52年にドイツ、53年にペルーとグアテマラ、56年にウルグアイとスイス、57年にブラジル、オーストリアとカナダ、58年にエルサルバドル、ケニアと日本、59年にコスタリカ、60年にオランダ、62年にパラグアイ、63年にオーストラリア、64年にフィリピン、65年にベルギー、69年にプエルトリコに、といった具合である。
 カトリックと対立するはずのイングランドに、ローマへの本部移転と同年に進出していることはなかなか興味深い。ひょっとするとロスチャイルド家か英国諜報部あたりとの関係も考えられなくはない。また非キリスト教国である日本にも意外と早く入っている。しかしこのオプス・デイ拡大について何よりも注目すべきことは、本部に近いヨーロッパ諸国はともかく、あたかも「バチカン・ラットライン」で逃げたネズミどもの後を追うように、南北アメリカ大陸に侵入した様子がよく分かることだ。
 東西冷戦という絶好の環境の中で、すでにこのネズミの通路はさまざまな裏組織と謀略機関の往復する街道になっており、そこをこのオプス・デイという新参の妖怪が悠々と通っていった・・・、大西洋の地図を眺めながらそのような想像をめぐらしてみる。
 ひょっとするとオプス・デイの急成長の秘密自体は永久に証明されることが無いかもしれない。しかしそれを探る努力の中から、闇に埋もれた「もう一つの現代史」の姿が少しずつ浮び上がってくるのではないか。
 1930年代から40年代にかけてのナチス・ドイツ進展の裏には、英・米資本と多くの米国企業が関与していることはすでに周知の事実である。ナチスを育て、「バチカン・ラットライン」を使ってその「遺産」を引き取り、その世界征服の野望をも受け継いで発展させてきた現在のアメリカ合衆国こそ、まさに「ナチ第4帝国」の名にふさわしい。ナチを育てた一人であるプレスコット・ブッシュ の子と孫がその頭目になっていることがそれを象徴している。
 ただ、今回使用した「ラットライン」関係の資料の作成者には恐らく左翼系のユダヤ人、あるいはそのシンパが多いと見えて、悪魔の双生児であるナチスとシオニストの関係が全くといってよいほど描かれていない。おそらくこれは高等な(つまり悪質な)情報操作の一つだろう。ナチスと米国との関係をどれほど正確に暴いても、そこにシオニストとの関係が書かれていない場合には、現代史の分析として片手落ちなばかりか、結局は英米イスラエル支配層を擁護するだけの大嘘につながるからである。
 私はオプス・デイとユダヤ・シオニストとの間にも重大な関連があるのではないか、と疑っている。イタリア・ファシストの系列である現イタリア保守政権は親シオニストであり、そこに深く食い込んでいるのがこの教団だからだ。この追究は恐らく困難を極めるだろうが、真実を知りたいという衝動は私の本能なのだ。腰をすえて調べていきたい。ここまで迫りきれば「現代史の闇」の全面開示となることだろう。
《注記:オプス・デイとシオニズムとの関係については第7部、第8部、第9部を参照のこと》

[第3部まとめと次回予告]

 2002年2月から3月にかけて、エルサレム近郊のベツレヘム生誕教会に多数のパレスチナ武装勢力が立てこもり、イスラエル軍とにらみ合いが続いたことは記憶に新しい。このときに事態を打開するために、関係のある(?)4つの国の諜報機関が集まって会議を持った。米国からCIA、英国からMI6、イスラエルからシン・ベト、そしてバチカンから来たのがオプス・デイである。
 いってみれば旧知の仲、お互いに腹の底まで分かっている間柄なのだろう。彼らは、中南米での反共政権樹立や東欧共産圏解体の策動で、また北アフリカ・中近東の動乱を作っては収める作業の中で、時には協力し時には対峙しながらも、「現代史を作るのは俺たちだ」という誇りを胸に秘めて活動してきたのかもしれない。
 次回は『中南米政変を操る影』と題して、中南米の数多くの動乱の陰に潜むこの教団の姿に迫ってみたいと思う。

第4部:中南米政変を操る影

http://bcndoujimaru.web.fc2.com/archive/Holy_Mafia_Opus_Dei-04.html

(2005年1月)

[ドルのカトリック化]

 「オプス・デイは、言ってみれば『ドルのカトリック化』だ。」アルゼンチンの元独裁者フアン・ペロンは生前このカトリック集団をこう形容した。
 20世紀後半のアルゼンチンには民政と軍事独裁が、政治的混乱と経済的行き詰まりをきっかけにして交互に訪れた。しかし政治体制に関わらず、一握りの富裕層だけが政治・司法の腐敗を通してますます肥え太っていく社会の基本構造だけは一貫している。さらにそこにカトリック勢力と米国の中南米政策が大きな影を投げかける。
 1945年から10年間にわたってこの国を支配したペロンはヒトラーとムッソリーニに心酔し、労働組合などの大衆運動を基盤にした国家社会主義の建設を目指した。そして英米資本を接収して鉄道やガスなどを国営企業とし、ドイツの技術を導入して国産のジェット戦闘機を開発、OASから脱退して冷戦に中立の姿勢を持つなど、米英にとっては厄介な存在だった。さらに教育法や離婚法などでカトリック教会の逆鱗に触れ53年にバチカンから破門される。政権後半に激増した反ペロンの動きには恐らくこの両者が深く関わるだろう。そして55年の軍事クーデターによりペロン政権は崩壊。(これには、バチカン・ラットラインとその後の秘密を知りすぎたペロンへの「口封じ」の意味もあったかもしれない。)
 その後、軍政と民政が複雑に入れ替わり、1963年に誕生したイリア政権は富裕層優遇、左翼弾圧の姿勢を貫きながらも米国系石油企業を接収するなど民族主義的な政策を進めた。そのイリアは66年のオンガニアによる軍事クーデターで追放されるが、この裏に米国が潜んでいることは容易に想像がつく。同時にオンガニアはオプス・デイの熱心な信奉者であった。1950年にアルゼンチンに進出していたこの教団はすでに資本家やカトリック教会、軍部の中で無視できないほどの勢力になっていたのだ。1970年にオンガニアが失脚し、73年には亡命先のスペインから帰国したペロンが大統領として復活するが1年で病死。
 ペロン復帰の1973年に隣国チリでピノチェット軍事政権が誕生し、75年にその首都サンチアゴでアルゼンチン、パラグアイ、ブラジル、ウルグアイ、ボリビア、チリの軍情報部のトップによる密議が行われ、「コンドル作戦」の異名を持つ情報調整・安全保障システム創設が行われた。ブエノスアイレスにはその情報センターと秘密収容所が置かれ、以後多くの左翼と愛国主義者たちの誘拐と移送、殺害が実行された。
 翌年76年にはビデラがクーデターを起こしアルゼンチンを再び軍政に変えた。彼の「汚い戦争」と呼ばれる徹底した左派弾圧で、2千3百名の暗殺、1万人の投獄、そして約3万人の「行方不明者」が出たと言われる。これらの一連の動きが米国の承認と指導の下で実施されたことは明白だろうし、カトリック教会や法制改革委員会を通してビデラ政権を支えたのは、もちろんオプス・デイである。
 国家テロによる左派弾圧と同時に、ビデラ政権はペソ切り下げ・緊縮財政を行い国内資産の多くが外国へと流れ、米国系国際企業の進出が進んだ。同政権の経済相マルチネスは同時にチェース・マンハッタン銀行の幹部でもあったのだ。76年から83年までの不況とインフレの中で、中産階級の30%が貧困階層へと転落したのである。
 その後1989年に誕生したメネム政権が推し進めたネオリベラル経済政策は、当初はアルフォンシン前政権の4千%を越えたともいわれる超インフレを抑えるのに役立った。しかしIMF・世界銀行による「構造調整」の結果、国営企業はことごとく米欧企業に売り渡され、ドルをベースにした固定相場制の中で米欧投資家が音頭を取る「キャッシュフロー信仰」に踊った結果、2001年の未曾有の経済危機によって破綻する。1976年に75億ドルだった対外債務が2001年には1423億ドルへと膨らみ、借金で利子を支払う自転車操業の中で、資金は国内の生産基盤の整備と最低生活の保障には回されず、この経済の実態が国民に明示されることはなかった。
 その中でハイレベルの汚職、大統領府の多額の使途不明金、政府職員と国会議員への超高額の給与支払い、資本家の恒常的な脱税、法システムの腐敗などなど、ありとあらゆる悪徳と不正が10年間にわたってこの国を支配したのだ。さらにメネムは軍政時代の人権蹂躪で逮捕されていたビデラ等の元独裁政権幹部に特赦を与えて釈放した。「自動的多数派」と呼ばれたメネム政権与党は、その党名「正義党」とは裏腹の「貧乏人から奪って金持ちに配る逆ロビン・フッド」でしかなかったのである。
 2001年の経済破綻の際に国内外の大資本は一方的に資金を逃避させ、25万ドル以上の高額預金者は自分の預金の47.4%まで引き出すことができたが、1万ドル未満の預金者は9%の引き出ししか許されなかった。11月だけでも約50億ドルが国内の銀行から消え、その後年末までに2百億ドルもの資産が「行方不明」となった。一方でアルゼンチン国民の、特に大多数を占める下層大衆の資産は破産寸前の国家によって差し押さえられ、その後のペソ切り下げによって掠め取られたのだ。
 オプス・デイが、内相ベリスや司法長官ボッジアノを尖兵としてこのメネム政権の内務・法務官僚、内閣官房、通信システムの中に浸透し、またネオ・リベラル経済の危険性を告発するカトリック内部の勢力を押さえつけて積極的にその政策を支えたと同時に、自ら国民の資産略奪に狂奔したことは言うまでもあるまい。一例として1997年のクレディト・プロビンシアル銀行破産事件を取り上げよう。銀行運営にあたるオプス・デイ関係者たちがこの銀行から2億ドルを持ち出していたのだ。その行く先は未だ不明だが、バチカンに流れたという噂もある。そしてこの事件で逮捕された者たちはいずれもろくに罪を問われていない。
 そして当のメネムは2001年にマフィア組織による武器密輸に関与した容疑で逮捕され、現在裁判中であるが、せいぜい微罪で即釈放だろう。
 オプス・デイは宗教と資本が結びついた「宗産複合体」とも言える集団である。そして米国の中南米政策には陰に陽にこの教団の姿が付きまとっているのだ。ドルのカトリック化…、ペロンの目は正しかった。

[ネオリベラル経済につきまとう「聖なるマフィア」]

 中南米諸国で最も早くこの新自由主義経済を受け入れたのはチリのピノチェットであった。1973年の彼のクーデターが米国の差し金であったことは今や衆知の事実であろう。すでに1970年のアジェンデ政権誕生の際に米国大統領ニクソンは、キッシンジャー国務長官、ヘルムズCIA長官らに対し、アジェンデ就任阻止のためあらゆる可能な行動をとるよう指示していたのだ。
 それ以前にも米国はチリの左派勢力の伸張を極端に警戒し、CIAを使って反共勢力育成のために様々な手段を講じていた。アルゼンチンと同年の1950年にチリに進出したオプス・デイは、このころには米国にとって最良のパートナーの一つに育っていたのだ。すでに62年には米国の保守的な資金源からの資金がオプス・デイに流れていたと言われ、フレイ政権(64~70)による穏健な自由主義政策、農地開放政策にすら反対して地主たちを組織化し国家農業協会の設立に力を尽くした。この組織が、同じく彼らが関与する右翼組織「愛国と自由」と共に、アジェンデ政権を揺さぶる勢力となる。
 70年代初期にはオプス・デイ関係の僧侶がCIAからの5百万ドルをチリの反共組織に渡していたという情報もあるし、もちろんピノチェット政権の閣僚に複数のオプス・デイ関係者がいた。彼らはアルゼンチン同様に、資本家、政治家、軍部の中に十分浸透していたのだ。そしてクーデターの翌年1974年に、オプス・デイの創始者エスクリバー・デ・バラゲー自身がサンチアゴに出向いて、『魂の息子たち』であるピノチェット政権幹部を祝福したのである。
 もちろん米国は単に反共政策のためだけにこのような謀略を練ったわけではない。ニクソンは1971年に自ら金本位制を廃止してブレトンウッズ体制を終了させ、キッシンジャーを旗頭にして、中南米により効率の良い経済支配・収奪構造を築き上げる作業に着手していたのだ。
 ピノチェットはアルゼンチンのビデラと共に国家テロによる恐怖政治で有名だが、同時に、1977年には『民営化』と称して国営の鉱山を米国資本に売り渡し、為替を自由化してチリをIMF8条国に移行させた。その後四年間に年平均8%の経済成長を達成して「チリの奇跡」と自画自賛するにいたったが、それを導いたのは「新自由主義経済」論の急先鋒の一人であったシカゴ大学のアーノルド・ハーバーガーの理論であり、それを強力に推し進めたのはオプス・デイが組織する資本家集団であった。当然だがそれは、生産基盤の充実と国民生活の向上を目指すものではなかった。
 これがその後のチリ経済の破綻と腐敗の極端な進行につながったのは当然である。ピノチェットは国家元首引退後、1998年にスペインのガルソン判事によって独裁政権時のスペイン人殺害の罪で起訴され、また2004年には米国ブッシュ政権によってその不正蓄財を暴露され、さらにチリでは現在コンドル作戦での殺人の裁判が進行中である。無論これはこの経済政策の恥部を覆い隠すための儀式的な「トカゲの尻尾切り」に過ぎず、オプス・デイと米国支配層による演出は明白だろう。
 中南米諸国でオプス・デイと新自由主義経済に食い荒らされたのは以上の2国だけではない。1990年から10年間に渡ってペルーを治めたフジモリは、軍部の支持と同時に、教会内のオプス・デイと彼らが主導する企業、銀行、政治家の連合に支えられたと言われ、国営企業やマスコミ等の「民営化」を行うなどネオリベラル経済を推し進めた。国民の支持は高かったが、議会を停止し閣僚を頻繁に入れ替える独裁的手法、政権延命のために憲法を無視する強引な手段、反政府ゲリラであるトゥパック・アマル(MRTA)やセンデルルミノソへの過剰な弾圧のうえに、モンテシノスに代表される政治腐敗が命取りになり、日本への亡命を余儀なくされた。
 次に米国の後押しで大統領に選出されたトレドは、スタンフォード大で博士号を得て世界銀行などで働いた米国のエリートであり、あのハーバーガーの弟子でもある。したがってその政策は前政権以上にネオリベラルだが、日本の援助と好景気に沸く米国のおこぼれを頂戴できたフジモリとは異なり、国内生産基盤の疲弊は目を覆うような状態で、国民の支持率は10%を下回りその政治生命は風前の灯である。
 さて、この教団はフジモリ時代に重要な進展を見せた。ペルーのカトリック教会内部では伝統的にイエズス会の力が強かったのだが、オプス・デイはフジモリを抱きこんだ後に勢力地図逆転に成功したのである。その象徴的な出来事が1996年12月に発生したMRTAによる日本大使館占拠事件なのだ。
 この事件は、地下に掘ったトンネルから特殊部隊が大使館内に侵入し、ゲリラ戦士たちを全員射殺して解決したのだが、そのための時間を稼ぎまた大使館内部のMRTAをスパイするために派遣されたのがオプス・デイのシプリアニ司教であった。フジモリは、ペルー教会の筆頭でイエズス会の枢機卿であるサモラを差し置いて、田舎司教区の坊主をこの大役に指名したのだ。その後バチカンはシプリアニをリマの大司教、そして次の教皇の候補となりうる枢機卿に任命した。これがこの国に対するバチカンの返答である。「使い捨て」にされたフジモリの時代に、オプス・デイを通してどれほどの資金がローマに流れたかは分からないが、この事実がその規模を物語っているかもしれない。

[中南米の政変に漂うこのカトリック集団の影]

 2002年に起こったベネズエラ政変のシナリオを描いたのが米国ブッシュ政権、直接にはCIAであることは明白だが、当然の事ながら国内の富裕階層、カトリック教会(主にオプス・デイ)、ちょっとした金で簡単に動く左右のならず者たち、そして欧米の大マスコミが加わり、その総力をあげて実行したものである。
 この国もまたカルデラ(69~74、94~98)およびペレス(75~77、89~93)政権の間にネオリベラル経済を導入し、極端な不正・腐敗体質の元で国内資本家と欧米資本が下層大衆の資産を好き放題に食い散らした。なおこの元大統領カルデラはオプス・デイの重要な関係者である。
 貧困層の救済を掲げてチャベスが44歳で大統領に当選したのは1998年だったが、選挙前に資本家とカトリック教会保守層は彼を「ファシスト」と中傷し、また「私有財産が没収される」などのデマを流して、銀行預金が引き出される、食料がスーパーから消える、富裕層がフロリダへと資産を移転させる、ならず者たちを使って暴力事件を多発させるなどの社会不安を煽った。
《注記:そっくりそのままの事態が、2013年以後、故チャベスの後継者マドゥーロの政権を悩ましている。》
 また米国クリントン政権もチャベス当選直後からNED(民主主義のための国家基金)を通して、総額で約2百万ドルの資金を反チャベスの牙城の一つであるベネズエラ石油労組などに送り、最初からチャベスつぶしを狙っていた。そしてブッシュ政権の元、CIA長官テネットが2001年に作成した「世界攻撃マトリックス」の一部としてクーデターが実行された。この点はキッシンジャーがCIAを使ってアジェンデ政権つぶしに奔走した70年代の動きの、ほとんどそのままの繰り返しである。
 さらにベネズエラのマスコミの多くが「反チャベス側」に買収された。明らかに「反チャベス側(恐らくCIAに支援された)」からのデモ隊への発砲を「チャベス側」からのものであると偽って報道し、世界の主要な主要マスコミも一斉にこれに同調してチャベスを「極悪非道の独裁者」に仕立て上げたのだ。
 臨時大統領となったカルモナはオプス・デイの支持者で、前大統領カルデラとは家族ぐるみの付き合いであり、またそのスタッフにはスペイン前首相アスナールの友人イトゥルベを筆頭としてこの教団の関係者が多く顔を見せている。さらに彼らを積極的に支援したカトリック教会はオプス・デイの影響を極めて強く受けている。
 クーデターは下層大衆の迅速な反応と「新政権」内部の不一致によって、数日であえなく失敗に終わったが、彼らは引き続き政権転覆の陰謀をめぐらせているだろう。2004年11月に起こったアンデルソン判事暗殺はその前兆かもしれない。この暗殺の計画が練られたのは、オプス・デイ、FBI、CIAやマフィア組織などの溜まり場で、ブッシュ弟が政権を握るフロリダだったのだ。
 オプス・デイは1980年代にも米国レーガン政権(副大統領は元CIA長官のブッシュ父)と手を組み、ニカラグアやエルサルバドルなどの中米諸国で数々の政治謀略に携わっていた。彼らは各地域の反共戦士たちの組織化に寄与し、下層大衆の救済を掲げるカトリック教会内の「解放の神学」勢力を圧殺していったのである。
 中南米の社会では、日本人には想像もつかないほど教会の影響力が大きい。その教会が反米姿勢を強めると大変なことなのだ。カトリック教会の支持はいずれの勢力にとっても「錦の御旗」であり、民衆は理屈抜きでそれに従う。それも自分たち下層民に有利なことであれば、もはや歯止めが利かなくなるだろう。
 オプス・デイの強い影響下にあるヨハネ・パウロ2世は1982年にニカラグアを訪問したのだが、民衆の前で「解放の神学」を悪罵し、「無神論者」である反米左派勢力のサンジニスタを打倒することが教会の使命であると強調した。中南米各国で頻発した「解放の神学」を唱えるイエズス会神父たちの殺害事件は、オプス・デイに組織された地方軍人、つまり地域のならず者たちによる。その最も悲劇的な例が1989年にエルサルバドルで起こったカトリック大学襲撃、学長エジャクリアなどの殺害事件だろう。
 そして現在、サリナスの新自由主義経済政策が破綻した後にメキシコ大統領となった保守系政治家フォックスは、メキシコ革命以来の伝統であった「政教分離」を放棄し、カトリック教会と連携しこれを擁護する政策を推し進めている。この教会保守派の中心がオプス・デイとその姉妹教団キリストの軍団、およびそれらのシンパであることに説明の要はあるまい。

[ネオリベラル経済に挑戦する米国の異端児]

 ネオリベラル経済は、一言で言えば「金で縛りつけて国を乗っ取り、永久に国際資本の餌食であり続けるように作り変える」政策と言えるだろう。ブレトゥンウッヅ体制が崩壊して本来ならお役御免のIMFが、世界銀行と共に「構造調整プログラム」を強制する道具として利用され、金融自由化、公共事業の民営化(実際には米欧資本への売却)、高金利政策、緊縮財政などを押し付けて発展途上国の国民経済を破滅させ、恒久的に米欧資本に隷属させる、究極的な帝国主義支配体制である。
 その進行に歯止めがかからなくなったのはもちろん冷戦終結後の80年代末期から90年代にかけてなのだが、70年代から80年代に頻発した中南米の政変は、親ソ勢力の「ドミノ」を食い止めるという政治的側面を持っていたと同時に、米国によるこの新自由主義経済政策の実験的導入でもあっただろう。そしてその完成形とも言えるものが2005年にその活動を本格的にさせるFTAA(米州自由貿易地域)なのだ。このFTAAの現在の議長役は、長年キッシンジャーとともに新自由主義政策の実施にあたってきたL.R.エイナウディである。
 ところで米国という国は広い。元マルクス主義者、元トロツキスト、8回も大統領選候補として出馬して1度も選ばれず、逮捕・実刑の経歴を持ち、経済学者を自称する政治活動家、そしてこの新自由主義経済政策に敢然と立ち向かい続けてきた、という変わり者がいる。リンドン・ラルーシュJr.という男である。
 彼の思想を詳しく紹介する余裕は無いが、手短に言えば、英国資本とウォール街を「諸悪の根源」とみなし、各国家の主権と独立性そして国民経済の確保を根本的に重視して、そのうえで国際的な協調を図る機関を置く、というものである。「キッシンジャーの天敵」と呼ばれることもあり、80歳を超す現在も妻のヘルガと共に精力的に活動している。自ら経営する学校を欧州と南米各国に持ち、彼の支持者は「ラルーシュ運動」と呼ばれる動きにまとまり、米国主流派の経済政策と対抗する別の流れを形作ろうとしているようである。実際彼は事あるごとにキッシンジャー、エイナウディなどを非難し、IMFと世界銀行の役割に警戒を呼びかけ、中南米やアジアの各国がそのワナにはまらないように忠告を繰り返している。
 その「反ユダヤ的傾向」によりユダヤ人団体などからは忌み嫌われているが、彼に対する攻撃は少々常軌を逸している。ファシスト呼ばわりはもちろん、86年のスゥエーデン元首相パルメ暗殺犯のキャンペーンを張られたり(これは後に無関係が明らかになる)、詐欺などで告発されて有罪判決を受け(ラルーシュはでっち上げを主張)、70歳間近になって5年間の刑務所暮らしを送る羽目になった。
 特にパルメ暗殺犯のデマを広めたのは悪名高きADLである。この謎に満ちた暗殺は、イラン・コントラ事件の秘密をパルメに明らかにされることを恐れた米国とイスラエル、ソ連と東ドイツの協力による謀略である疑いがある。そしてADLがラルーシュに濡れ衣を着せようとたくらんだ裏に、日ごろからその経済政策を非難されて彼に憎悪を抱いていたキッシンジャーなどの米国ユダヤ勢力がいたことは容易に想像がつく。彼らはラルーシュがレーガン政権内部に入り込んで影響力を及ぼそうとするのを、全力をあげて妨害していたのである。
 それにしてもここまでのデタラメな手を使ってその口を封じようとするところを見ると、逆に、ラルーシュが彼らの政策が持つ本質的な危険性をよほど鋭く見抜き、しかもその運動が見過ごすことのできない社会勢力になりつつあったことが窺える。いつの世でも悪いやつほど真実を恐れるものだ。
 ところで、この四半世紀に経済破綻を繰り返させられた中南米の国々では、近年さすがにこのネオリベラル経済に対する警戒感が強まったためか、チャベスのベネズエラはもちろん、ブラジル、チリ、ウルグアイなどで、米国と一歩距離を置く政権が誕生してきている。経済の首根っこを米欧国際資本に抑えられた状態は変わらないにしても、以前のような好き放題な動きは困難になりつつあるだろう。この傾向と中南米におけるラルーシュ運動との関係は明確ではないが、彼の提唱と同様の、各国の経済的自立と国家の主権を回復しようと志す層が着実に増えていることは事実だといえよう。
 ところが中南米の左翼の間ではラルーシュの評判はすこぶる悪い。彼に対する非難に共通するのは「ファシスト」「アンチセミティスト」といった米国内で右派ユダヤ勢力が使う表現である。それに加えて「ムーニィズ(統一教会)と結託する極右主義者」、果ては「ローマ教皇暗殺をたくらんだベネズエラの危険なカルト集団に関与する極右テロリスト」など、先ほどの「パルメ暗殺犯キャンペーン」を髣髴とさせるレベルのデマが、中南米の左派系の情報誌に踊っている。
 これは恐らく、米国内でその「右手」を使ってラルーシュ運動つぶしを行ってきた勢力が、中南米ではその「左手」を動員して彼の思想の浸透を食い止めようとしているものと思われる。ラルーシュは、麻薬を資金源とする統一教会が米国のクリスチャン・シオニストの先導役になっていることを、正しく指摘・警告しているのだ。
 ただこのラルーシュに関してどうしても解らないことがある。それは彼が南北アメリカ大陸でのオプス・デイの存在を全く考慮していない点だ。彼は、バチカン・ラットラインとそれ以降に拡大された欧州・米国・中南米を結ぶ「国際ファシズム連合(彼はSynarchist -controlled networksと呼んでいる)」の危険性を指摘し、2003年には、ある意味で3・11の予言ともいえる「もう一つの9・11」を警告しているのだが、不思議なことに彼の認識の中にオプス・デイは存在しないかのように見える。全く関心を持たず知識も無いのか、重要性を感じずに言及しても無意味として無視しているだけか、それとも知って意図的に伏せているのか。この点については今のところ私には全く理解できない。

[再び『ドルのカトリック化』:第4部まとめと次回予告]

 最後に、「オプス・デイは『ドルのカトリック化』だ」というペロンの言葉がやはり気になる。単に新自由主義経済に踊ってゼニ集めに狂奔するだけなら『カトリックのドル化』と言うべきだろう。これは単なる言葉の遊びかもしれないが、しかしこの米欧国際資本の気違いじみた略奪経済システムを利用して、着実にバチカン、欧州、南北アメリカ大陸での地位を固めてきたこのカルト集団の目的が、単なるゼニもうけだけとは思えないのだ。そのイデオローグたちは、オプス・デイの目的は「カトリック十字軍の再興」を通した「世界的な規模でのカトリックの再生」にある、と言う。
 この言葉だけなら単なる狂信者の夢想でしかないが、しかし、例えばEC(欧州共同体)構想に初めから彼らが関わっていた、となると、笑ってはいられないだろう。次回は「欧米社会の新たな神聖同盟」と題して、欧州各国と米国の中枢部に食らい込み闇のネットワークを広げるオプス・デイの姿をご紹介していきたい。

第5部:欧米社会の新たな神聖同盟(上)

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(2005年4月)

[聖人製造工場]

 「おい、冗談だろう?」3・11マドリッド列車爆破事件の少し前の2004年3月初旬、欧州の各界で驚きの声が上がった。バチカンが「シューマン」を福者の候補として挙げたからだ。カトリックの教義で、福者は人間に与えられる地位の中で聖人に次ぐものであり、聖人はこの福者の中から選ばれる。聞いた人の中には音楽家のシューマンを想像して妙に納得した人もいたようだが、これは「EUの父」「EUの守護聖人」とも呼ばれるロベール・シューマンのことだったのである。
 そもそもある人物が福者に推薦されるには、死後5年以上たつこととその人物が行った「神による奇跡」が少なくとも一つは認められなければならない。バチカンの専門会議で本物の奇跡であるかどうかが厳しく審査され、伝統的には認められることが非常に難しいはずのものである。
 ところが故教皇ヨハネ・パウロ二世は2004年末までの26年の在任中、何と1337名の福者、482名もの聖人を作った。もちろん一人の教皇としては空前絶後で、彼以前の17名の教皇が作った聖人・福者の数の合計よりも多い。人は彼のバチカンを「聖人製造工場」と呼んだ。しかしそれにしてもロベール・シューマンが何の奇跡を行ったというのだろうか。もし彼が福者となったのならそれこそ「神による奇跡」に違いなかったであろう。
 第二次大戦後にフランスの首相も勤めたロベール・シューマン(1886~1963)は、外相であった1950年に、それまで米英の主導で進められていた欧州統合路線を一気に覆し、仏独を軸にした統一欧州構想であるシューマン・プランを発表した。そしてその計画に沿って翌年にECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)が発足したのだが、彼は、このプランに協力したイタリアのアルチデ・デ・ガスペリ、西ドイツのコンラート・アデナウアーと共に、熱心カトリック信徒であった。そしてシューマンとガスペリは、実はオプス・デイに所属していたのだ。
 オプス・デイの傀儡と言われた故ヨハネ・パウロ2世がシューマンを福者にしたがった特別な理由はちゃんと存在した。何せ2002年には死後27年という異例の早さでこの教団の創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーを聖人に仕立て上げた教皇である。この「EUの父」を福者にする目論見は、EU憲法の中に「キリスト教」の一言を記入させ、ローマ教会つまりオプス・デイのペースでEUを動かすためのデモンストレーションでもあった。しかしさすがにこの横車は押し通すことが出来なかったと見えて、2004年のシューマン列福は立ち消えになりEU憲法もバチカンの思惑から外れた。

[統一欧州とオプス・デイ]

 シューマン・プランが発表された1950年といえば、創始者のエスクリバーがローマに本拠地を移転してからわずかに4年目のことである。シューマンとガスペリだけではなく、欧州統一を目指して1946年に作られた経済協力欧州連盟(LECE)の会長で後のフランス大統領の父親であるエドゥモン・ジスカール・デスタンも、またオプス・デイに属していたといわれる。
 教団創設から間もないこの時期に、すでにこれほどの欧州政界の大物をかかえ、その会員の名を冠したプランがその後の欧州の運命を決めてしまったのである。このECSCの成立は、米国と組んでアングロサクソンのペースで欧州をまとめようとした英国の思惑を打ちのめし、現在のフランスとドイツを軸にしたユーロ圏とEUの登場に道を開いたものであった。オプス・デイはその初期からすでに欧州の「雲の上」にその身を届かせていたのだ。この教団は最初から支配者となるべく育成されていた。第3部 でも述べたが、その誕生と成長の過程には実に多くの秘密が横たわる。
 そもそも欧州統一の流れは、理念としては17世紀のアンリ4世の時代にまでさかのぼるのかもしれないが、実質的には第一次大戦終了後の1922年にリヒャルト・デ・クーデンホフ-カレルギ伯爵が主導した「汎ヨーロッパ主義運動」がその出発点であった。オーストリア帝国外交官と日本人の母ミツコとの間に生まれたこのオーストリア・ハンガリーの貴族は、フランス・ドイツ国境の石炭と鉄鉱の資源争奪が戦争の原因と考え、国境線の廃止と超国家的権威による資源の管理が新たな戦争を食い止める唯一の道であると唱えた。彼の「統一欧州」は米国、ソ連、大英連邦と拮抗する勢力をなるべきものであり、分裂し疲弊して米国とソ連に挟撃される欧州をよみがえらせようとする熱意の産物であった、といえる。彼の理想はアポリネール、トマス・マン、アインシュタイン、フロイト、ピカソなどの欧州文化人(不思議とユダヤ人が目立つ)から高い評価を受けたが、大不況と第二次大戦がその夢を打ち砕いた。
 そしてクーデンホフ-カレルギと共に欧州統一構想に力を尽くした人物がイタリア人の大富豪でフィアットの創業者ジョヴァンニ・アニエッリであるが、彼はベルサイユ条約と国際連盟に反対してムッソリーニ政権最大の庇護者となりヒトラーを支持した。ジョバンニは一九四五年に他界したが、その後もアニエッリ家は、オプス・デイと関係の深いイタリア保守政界(例えばガスペリの他にジウリオ・アンドレオッティもそのメンバーと言われる)を中心的に支え続け、欧米支配層の中で遺憾なく実力を発揮した。おそらくこの教団の創成期に深い関わりを持っているものと思われる。
 第二次大戦後はソ連圏に対する集団的防衛の意味合いを帯びた形でこの統一欧州構想が改めて取り上げられることとなった。それは米国に亡命していたクーデンホフ-カレルギの声にCFRが耳を傾けたものであったのだが、米国と英国のプランは彼の構想とは似ても似つかぬ、アングロサクソン主導による大陸欧州の属領化ともいえるものであった。しかしこれは1952年までに担当者内部の不一致とド・ゴールなどの抵抗で頓挫し、クーデンホフ-カレルギの当初のアイデアを生かしたシューマン・プランに沿ったECSCが本格的に始動することとなったのだ。
 米国はNATOを先に(1949年)発足させ対共産圏の軍事政策を利用して欧州に枷をはめていた。しかし欧州事情に詳しく後にCIAの長官となるアレン・ダレス(CFR委員)はペンタゴンの思惑とは別にシューマン・プランの実現に向けて協力を惜しまなかった。ダレスといえば、米欧ユダヤ支配階層に最も信頼される人物の一人であり、オプス・デイと縁の深いリチオ・ジェッリと共にバチカン・ラットライン を画策・実行した人物でもある。ここに米国の持つ「もう一つの顔」が見え隠れする。
 ECSCの成立はアングロサクソンを狼狽させたが、しかしやがてNATOとの妥協点から、欧米を支配する者たちによる一つの「ソサエティー」が誕生することとなる。これが1954年に発足するかの有名なビルダーバーグ会議であるが、ここではこの集まり自体については触れない。
 ECSCは1951年にフランス、西ドイツ、イタリアおよびベネルクス3国の6カ国で成立し、1957年には同じ6カ国による欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(Euratom)が発足した。これが英国をも巻き込んで後のECに、そしてユーロ圏を形成し、東欧・バルト海諸国を含む今日の25カ国のEUへと発展したのである。将来はトルコやひょっとしたらイスラエル、果てには地中海沿岸全域を含む、巨大な地域ブロックを形作る可能性すらある。
 そしてオプス・デイの姿は、その発起人ともいうべきシューマンやガスペリはもとより、推進者のアニエッリ家と歴代イタリア保守政界、フランス保守政界にちらつくし、また現在の欧州議会と欧州委員会の中でも非常に強い影響力を持つ。さらにハブスブルグ家、ブルボン家、リヒテンシュタイン家、ポニアトウスキ家、ワルドブルグ-ゼイル家などのEU内での有力な家系の者はオプス・デイに関係ありと見たほうがよい。オランダ王家も無縁ではなさそうだ。彼らは王家・貴族の家柄だけでなく大資本家であり、欧州の政治・経済を影で(というより「雲の上」から)取り仕切る者たちである。当然のことながらバチカンとスペイン王家は完全に彼らの勢力範囲だ。

[共産圏解体の陰に]

 ここにロベール・シューマン研究所という組織がある。これは正式には「中央および東ヨーロッパにおける民主主義発展のためのロベール・シューマン研究会連合」という名称である。1995年に発足したもので、各国の保守的(つまりキリスト教的)政党や団体によって構成され、その主体はルクセンブルグ・ロベール・シューマン基金、キリスト教民主党連合、欧州国民党(EU議会内の保守党会派)、欧州研究基金である。その目的は名称の通り旧共産圏の国々に西欧型民主主義を根付かせる、というものだが、このソ連圏の解体に果たしたバチカンとオプス・デイの役割は限りなく大きい。
 ポーランド出身のカロル・ヴォイティーワが教皇の座に着いたのは冷戦継続中の1978年のことであった。彼の前任者ヨハネ・パウロ1世は在位わずか1ヶ月で謎の死を遂げたが、オプス・デイあるいはフリーメーソン組織P2による暗殺ではないか、との噂もある。さらにその少し前のニクソン政権の時代から、それまで公式には関係を絶っていた米国が、バチカンに積極的な接触を開始していた。
 関係を絶っていたとはいえ、第4部でも書いたように、米国政府とCIAは中南米での数々の反米政権転覆謀略の中でオプス・デイと密接な協力関係を保ち続けていた。そしてそのオプス・デイがヴォイティーワを強力に推し、誰もが予想しなかったポーランド人教皇の誕生となったのだ。この筋金入りの反共主義者であるヨハネ・パウロ2世誕生の背後にはただならぬ気配が漂う。
《注記:ヨハネパウロ2世と米国、そしてオプス・デイの関係についてはこちらの記事も参照のこと。》
 米国はレーガン時代の1984年にバチカンと正式に国交を結びCIA局員が大手を振って教皇庁に出入りできるようになったのだが、もちろんそれ以前から米国政府-CIA-オプス・デイ-教皇庁のつながりはしっかり出来ていた。その前年に教皇は反米サンジニスタを壊滅させるべくニカラグアを訪れているのだ。
 また教皇庁、つまりオプス・デイはリチオ・ジェッリを通してソ連・東欧の情報機関との接触を持っていたと思われる。この教団のメンバーであるFBI局員ロバート・フィリップ・ハンセンが十数年間のKGBスパイ容疑で2001年に逮捕され、同じく会員である疑いが強いその上司のルイス・フリーフFBI長官がその後に辞任したことが何よりの証拠だ。要するに口封じである。「冷戦」体制から「対テロ戦争」体制に移る際に、以前の対立構造の秘密を消し去っておかねばならなかったのだろう。
 そして1989年にレーガンの跡を継いだ元CIA長官のジョージ・ブッシュ父は、ヨハネ・パウロ二世の仲介でソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフとのマルタ会談を実現させ、冷戦に終止符を打った。これが長年にわたるCIAとオプス・デイによる地道な諜報活動と根回しによる結果であったことは説明の要もあるまい。ヴォイティーワは共産圏を解体し冷戦構造を終了させるべく選ばれた男だった。それを知っていたからこそブレジネフは彼に刺客を放ったのだ。
 しかし何よりも彼らの熱意を感じさせる場所は、やはり教皇の祖国ポーランドであろう。ポーランド「民主化」のシンボルはあの労働組合「連帯」委員長で後に大統領となるレフ・ワレサなのだが、このワレサがオプス・デイのメンバーである可能性は高い。2002年に教団創始者エスクリバーが聖人に列せられた式典で、ワレサの姿が大勢の信徒や支持者たちに混じって目撃されたのだ。またP2とオプス・デイ、バチカン銀行が絡むアンブロシアーニ銀行倒産事件を招いた13億ドルと言われる使途不明金は、中米とポーランドでの反共政治活動資金につぎ込まれた、と噂されている。
 80年代に入って急激に高揚した「連帯」の動きの裏には、教皇庁、オプス・デイとCIAの連帯もまた存在していたのである。こうして1989年6月に行われた議会選挙で「連帯」は大勝利をおさめ9月には東欧初の非共産主義政権が誕生した。これがいわゆる「東欧革命」の口火を切ったのである。現在この国はEUに加盟しながらも強く親米路線をとっている。これは伝統的な反独感情もあるが、何と言っても80年代以来のオプス・デイとCIAの工作による世論形成が引き継がれているのであろう。先ほどのロベール・シューマン研究所の設立は東欧各国のEU加入を準備したものであり、そしてポーランドには東欧で最初にロベール・シューマン基金が開設された。
 もちろんEUの動向はオプス・デイだけによるものではない。EU内には、宗教派と世俗主義派、カトリック派と反カトリック派、そしてカトリック内部にも「保守派(オプス・デイを主体にした)」と「進歩派」の大きな対立がある。しかし「第2部:スペイン現代史の不整合面 」でも述べたとおり、この教団は「対立概念」を超越しているのだ。「雲の上の住人」は対立を巧みに操作しながら現実を作り変えていく。見かけの姿にとらわれると世界は見えてこない。

[アングロサクソンがターゲット]

 2004年12月、英国に衝撃が走った。トニー・ブレアー首相が教育大臣としてオプス・デイ会員の女性ルース・ケリーを指名したからだ。伝統的に英国聖公会が圧倒的に強い英国政界で、カトリック信徒、それも「得体の知れぬ秘密組織」との風評が絶えず「超保守派」として名高いこの教団のメンバーが入閣するとは! 早速、人工中絶や避妊の認知を進める女性団体やバチカンの策謀を警戒する宗教界は各方面の学者を動員してその「危険性」を訴えたが、ブレアーは今のところ全く動じる様子は無い。
 英国労働党政府周辺に入り込んでいるオプス・デイ関係者が彼女一人とは到底思えない。さらにガーディアンやタイムズなどの英国の新聞は、ブレアーの妻シェリーがオプス・デイに近い筋のカトリック信徒であり、ケリーの入閣には彼女の強い働きかけがあった、というもっぱらの噂を報道する。しかし問題は妻のシェリーだけではない。当のトニー・ブレアー自身が知る人そ知る「隠れカトリック」なのである。報道によると、彼はあるカトリック僧に将来の改宗を示唆した、という。妻を通してオプス・デイに操られているのではないか、あるいはすでにそのメンバーとなっている、という声すらある。彼がユーロ導入に熱心なわけだ。
 英国にとって、カトリックが国の指導部に入り込む、ということは、ヘンリー8世、エリザベス1世の時代以来の大問題なのだ。それも事実上バチカンを取り仕切って保守的カトリックを固守し、大陸欧州政財界で底知れぬ実力を持ち、そのうえに何やら秘密結社めいたイメージを拭い去れない教団であればなおさらだろう。
 しかしオプス・デイに関しては不思議な点がある。創始者のエスクリバーがその本部をローマに移転した同年、欧州統一構想が再び盛り上がりつつあった1946年にイングランド支部が開設された。なぜパリやウイーンより先にロンドンなのか。さらにその後、教団最大の論客で最重要幹部の一人、スペイン王政復古と民主化に尽くしたラファエル・カルボ・セレルが、ロンドンのスペイン研究所所長になっている。しかしそこは聖公会と英国王室の本拠地、世界を股にかける諜報機関の中心地、そしてユダヤ金融センターではなかったのか。
 つまりこういうことになる。英国とアングロサクソン世界を支配する「彼ら」にとってこのカトリック集団は危険ではなく、むしろ「当然の仲間」として迎え入れるべきものであった、ということだ。ここにも表面ばかり見ていたのでは到底理解できない世界が存在する。そういえばP2事件の中心であるアンブロシアーニ銀行の頭取ロベルト・カルビが謎の死を遂げたのもまたロンドンだった。この世界の魔都が自ら進んでこの新参の悪魔を招いたとしか思えない。
 オプス・デイは一般大衆に対する布教には熱心ではなく、中産階級以上の優秀な人材を「一本釣り」をするのが特徴である。また有力な会員の周辺には、思想信条を問わない「協力者」という名目の関係者からなる非常に幅広い裾野を持つ。これは主に政治的・経済的利益で結び付いているものだが、こうして中~上流の階層から発して一つの社会を動かしていくのがこの教団のやり方である。この点は「解放の神学派」を除く旧来のイエズス会とも似通った面を持つ。
 したがって英国の一般民衆の大部分が聖公会信徒のままでもこの教団は意に介しないであろう。現在アングロサクソンが彼らの最大のターゲットになっている、といえる。しかしそのためには何よりもシティを牛耳るユダヤ資本、および米国支配層との「共存共栄」が不可欠であろうが、その辺は心得ているように思える。

「ダヴィンチ・コード」に惑わされるな:第5部まとめと次回予告

 近年日本でも評判になっている「ダヴィンチ・コード」だが、この小説に登場する中世的雰囲気を漂わせるおどろおどろしいカルトのイメージでこの教団を考えていると、とんでもない見誤りをしてしまう。彼らの本体は「雲の上」にあり「右」も「左」も使いこなす演出家の一群なのだ。オプス・デイが冷徹に計算された統一欧州構想に最初から中心的に関わってきたことは紛れも無い事実である。そして同時に、「冷戦構造」の構築とその解消を演出した米国支配集団とも密接につながっている。
 注意が必要なのは、欧州にしろ米国にしろ、彼ら支配集団が決して一枚板ではないことだ。彼らはあくまでも「チェスの指し手」の集団であって「雲の上」で手を結ぶことも反目しあうこともありうる。次回は今回に引き続き「欧米社会の新たな神聖同盟(下)」と題して、米国社会の中で暗躍するオプス・デイと、彼らが思い描いているであろう未来世界の構図「新たな神聖同盟」の姿について探っていくことにしたい。

第6部:欧米社会の新たな神聖同盟(下)

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(2005年7月)


[3代の米国大統領が出席した葬儀]

 それは奇妙な光景だった。2005年4月初頭、場所はバチカン市国。故ヨハネ・パウロ2世の遺体の前に、ブッシュ父、クリントン、ブッシュ息子夫妻、コンドリーサ・ライスと、米国3代の大統領と現国務長官がかしこまってひざまずいていた。何となく居心地悪そうに周囲を見回すライスはともかく、3人の現・元大統領たちは実に神妙な顔つきでカトリック風の祈りを捧げていた。しかもローラ・ブッシュ夫人とライス国務長官はカトリックの黒いベールを頭にかけていた。しかし彼らのうちの誰一人としてカトリック信徒はいないのである。
 奇妙な光景はバチカンばかりではなかった。大統領命令により公立・民間を問わず米国中の国旗掲揚ポールに半旗が掲げられ、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストをはじめとして大新聞は連日第一面のほぼすべてを教皇への追悼に捧げ、TV各局も一日の大半を使って追悼番組を流し続けた。
 カトリックはいつ「米国の国教」になったのだろうか? まぎれもないカトリック文化の国であるスペインですら、ここまで大げさな反応はしなかった。確かに国家元首の葬儀には違いなく礼を尽くすのは当然だとしても、少々やりすぎではないか。一般の国民はどちらかというと白けムードに包まれていたようだが、どうして米国首脳部はここまでしてヨハネ・パウロ2世の死に面しなければならなかったのか。
 確かにブッシュ父にしてみれば故教皇と二人三脚で冷戦時代を過ごしてきた仲であり、息子にしても米国のカトリック票をまとめて自分を大統領に押し上げてくれた恩人である。頭が上がるまい。ここにクリントンを入れたのは「超党派」の格好をつけて「ブッシュ・ファミリー」の色を薄める目的があったと考えられるが、それにしてもこれでは「バチカンは米国の主人か」とすら思えてくるほどだ。この世界最強の政治体制と世界最大の宗教との間にどのような関係があるというのだろうか。

[バチカンの米国化=第2公会議とオプス・デイ]

 ローマ・カトリックを時代に合わせてリフォームするための会議、第2バチカン公会議は1962年から65年にかけて行われた。このカトリック改革には最も重要な二つの働きかけがあった。一つはアメリカ、もう一つがユダヤである。
 様々な改革点の中で目を引くのが「カトリック教義の米国憲法化」である。これは具体的には米国出身のジョン・コートニー・マレー神父の力によるものである。マレーはバチカンの幹部でもなく公会議に投票権を持つ司教でもない。しかし条文作成の技術に長けた専門家であるマレーの「改正案」は、このような作業に慣れていない数多くの司教たちを苦も無く屈服させてしまった。
《この点に関しては、こちらの記事を参照のこと》
 それは「信教の自由」を中心にした種々の「自由」に関する規定であり、従来の「カトリック教会にのみ救いがある」とする独善的な体質を変えて、エキュメニズム(各キリスト教会一致主義運動)や他の宗教との対話へと進める重要な改革点となった。公会議後マレーは誇らしげに語った。「この宣言と米国合衆国憲法に明記されている信教の自由に関する権利の目的もしくは内容は、同一である」。
 このマレーを専門家としてバチカンに招聘したのが、マフィアやKKK、CIA、フリーメーソン、ブナイブリスなどとのつながりから「ブラック・ポープ」として恐れられ、米国大統領も一目置くイエズス会の重鎮フランシス・スペルマン枢機卿だったのである。彼はオプス・デイの重要な関係者でもあった。
 オプス・デイの創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーは元々から「人々の良心の自由(思想・信仰の自由)」とエキュメニズムを主張し、この公会議での改革派とは深くつながっていた。実際にこの教団は、「キリスト教の理想を世界で実現させる活動(「使徒職活動」と呼ばれる)は、社会的地位、人種、宗教、イデオロギーに関係なく、すべての男性・女性に開放される」ことを方針とする唯一のカトリック集団である。そしてその後のオプス・デイの急成長を見るときに、この第2バチカン公会議での「バチカンの米国化」の恩恵を最も多く受けたのが彼らであることは明らかだろう。
 もちろん今までにも述べてきたように、オプス・デイはその誕生間もない頃から米国の諜報組織とは深くつながっていた。そして1960年代には南米ですでに大きな勢力を持つに至り、CIAやFBIの上層部にも浸透して冷戦時代に大きく発展することになる。彼らはその歴史の初めから米国権力機構の中枢部に触手を及ばしていたのだ。これには当然スペルマンの尽力が大きいと思われるが、その詳細は今の私にはまだ明らかではない。
 なお、第2バチカン公会議のもう一つの重要ポイントであるユダヤに関しては今回は取り上げない。回を改めよう。

[「バチカン・クーデター」の裏舞台]

 オプス・デイがニクソン政権時代にチリのピノチェットによるクーデターと軍事独裁政権誕生に大きな役目を果たしたことは第4部 に書いたとおりだが、その後の1978年に、バチカンで大変な騒動が巻き起こっていた。第2バチカン公会議決定事項の熱心な推進者パウロ6世が死去したあと、教皇に就任したヨハネ・パウロ1世はわずか1ヶ月で暗殺と思われる謎の死を遂げる。そしてその跡を継いだのが、バチカンの周辺がほとんど誰一人予想しなかったポーランド人カロル・ヴォイティーワ(ヨハネ・パウロ2世)だったのだ。
 この教皇がオプス・デイの操り人形だったことは今まで何度も強調してきたが、ヨハネ・パウロ2世誕生の裏にはその他に、教皇の個人秘書としてバチカンで絶大な権力を誇ったスタニスラフ・ジーヴィッツ、フィラデルフィアの枢機卿で米国政界に影響力の大きいジョン・クロール、そしてカーター政権の安全保障担当補佐官ズビグニュー・ブレジンスキーという、3人のポーランド出身者の連携があったのである。特に世界を「チェス板」として眺めるユダヤ人ブレジンスキーの関与は重大な意味を持つ。
 私は、このヨハネ・パウロ1世の死(暗殺)とヨハネ・パウロ2世長期政権の発足は、やはりユダヤ人のヘンリー・キッシンジャーが画策したチリの軍事政権誕生と同様、計画的なクーデターに他ならない、と考える。
 そしてこのときのコンクラーベでヴォイティーワを強力に推薦したのが「キング・メーカ」の異名をとるウイーンの枢機卿フランツ・ケーニッヒである。彼はエスクリバーの盟友の一人であり、また社会主義者でユダヤ人のオーストリア首相ブルーノ・クライスキーと密接な関係にあった。
 この枢機卿は欧州の社会主義を反共勢力の中に組み込むことに成功したと同時に、カトリックとユダヤ人(イスラエル)との関係確立に最も力を尽くした一人だった。このケーニッヒ周辺の人物にヨーゼフ・ラツィンガー(現教皇ベネディクト16世)がおり、さらにそのラツィンガーの愛弟子の一人が現在イスラエルから最も信頼を寄せられるカトリック・シオニストのクリストフ・シェンボルン枢機卿である。
 ヨハネ・パウロ2世誕生にまつわるこれらのすばらしい人物関係を見ていると、米欧ユダヤ(シオニスト)支配層の命を受けたオプス・デイとCIAによる実に臭い演出が透けて表れるのだ。その後の中南米とポーランドなどの東欧における勝共運動と「冷戦」の終結については第4部と第5部 で書いたとおりであり、繰り返すことはしない。
 故カロル・ヴォイティーワ教皇こそ「ミスター冷戦」の名にふさわしい。そして彼をこの時代の主人公の一人に仕立て上げたのがオプス・デイ、特にバチカン広報室長のホアキン・ナバロ・バジェスであり、この教団に極めて親しい教皇の個人秘書スタニスラフ・ジーヴィッツである。彼らが「冷戦構造」を盛り立てたうえで平和裏に解体した陰の立役者であろう。

[ブッシュ親子と米国のバチカン化]

 ブッシュ(父)がレーガン政権と自分の政権を通して、どれほどにバチカンとオプス・デイの力を仰いだのか、改めて言うまでもあるまい。
 そしてブッシュ(子)に対するバチカンの力添えはもっと直接的である。2000年の大統領選で最後までもめたフロリダ州は、亡命キューバ人に支えられ中南米利権で懐を潤す弟のジェブ・ブッシュが支配する地域であり、カトリック右派の票が結局あのダブヤ(G.W.ブッシュのあだ名)を大統領に仕立て上げた、といっても過言ではなかろう。フロリダのカトリック票(亡命キューバ人が多いが)のうちこの選挙では54%がブッシュ支持だった。(米国のカトリックは伝統的には民主党支持のリベラル派が多数派である。)
 2004年にケリーと争ったときには、当時バチカン教理省長官だったラツィンガーが米国のカトリック信徒をほぼ脅迫的な手段でブッシュ支持に向かわせた。さらにTV、ラジオ、インターネットなどでの、パット・ブキャナン、ディール・ハドソン、ロバート・ノヴァックといった保守派カトリックの評論家による精力的な活動も重要だった。そして4年前には全国のカトリック票の47%であったブッシュ支持がこの年には52%に上昇した。不正選挙の可能性が高いにしろ、ギリギリの票差の中でこのカトリック票の重みは計り知れないだろう。
 このようにブッシュ(父)もその息子たち、ジョージ・ワシントンとジェブにしても、バチカンには頭が上がらないわけである。さらにもう一人の弟ニールまでが、現教皇のラツィンガーと共に役員を務めるスイスの幽霊財団を通して、「イラク復興ビジネス」で甘い汁を吸わせてもらっていると言われる。故教皇の葬儀に親子女房連れ、カトリック様式で出席しなければ、それこそ神罰が当たるというものだろう。
 しかしそのような「バチカンの影響力を政治的にあるいは個人の利益追求に利用している」というだけで、最初に述べたような「国家総動員体制」でローマ教皇の葬儀に臨むだろうか。そこには米国という国家自体の質的な変化が感じられる。第2公会議でバチカンの「米国化」が行われたように、ブッシュ父子が米国の実権を握っている間に、米国の「バチカン化」が進行してきたのではないか。
 こんなことを言うと「バカをいうな。アメリカはプロテスタントの国だ」「ブッシュは熱心な再洗礼派の福音主義者ではないか」と言われそうだ。では、あの9・11以後の「対テロ世界戦争」を仕掛けるにあたって、どうして『十字軍』というカトリック的なスローガンをかかげたのか。
 ここが肝心だ。カトリックとプロテスタントの長年にわたる対立を止揚するシンボルとして、つまりカトリック教会が第2バチカン公会議以来強力に推し進めているエキュメニカル運動を一つの政治的な形として表現したものが、この「対テロ十字軍」のもう一つの意味だったのである。
 9・11「テロ」事件の少し後のことだが、ペンシルバニア選出の米国上院議員(共和党)でオプス・デイとも縁の深いリック・サントラムは、米国の雑誌「ナショナル・カトリック・レポーター」に次の奇妙な見解を語った。「私はジョージ・W.ブッシュ氏を『米国で始めてのカトリック大統領』だと見なしている。」
 もちろん実際には米国初のカトリック信徒の大統領はJ.F,ケネディなのだが、サントラムは、ケネディが個人的な信仰と政治的な責任との間に区別をつけたことを非難する。ケネディは、もしも大統領に選ばれたらカトリック教会の命令には従わない、と宣言したのだが、サントラムに言わせるとこれが『米国に非常な害悪をもたらした』のである。彼の頭の中には政教分離という用語は存在しない。政治的理念と宗教的信条が一致した「神権政治」がこの上院議員の理想であるようだ。
 実際に、9・11事変以降ブッシュ政権の元で、米国全体が軍産宗一体となった「神権政治」を目指して突っ走っているように見える。サントラムの言う『カトリック大統領』がその推進者を指していることは明白だ。そしてプロテスタントとカトリックに加えてユダヤ教徒(それぞれの「右派」)がこの流れを強力に形作り、そしてバチカンがそのリーダーシップをとりつつあるのではないか。ヨハネ・パウロ2世の葬儀とその間に米国中を覆った異様な光景がそのことを鋭く象徴している。米国の宗教界を単に「票田」という眼で見ている人は、おそらく現在進行中の重大な変化を見過ごすことになろう。
 なお、プロテスタント右派をまとめてブッシュ支持に向かわせているのが文鮮明の統一教会であり、大マスコミを操って9・11とイラク開戦の大嘘の暴露から懸命にブッシュを守っているのがユダヤ(シオニスト)右派だが、ここではそれらとバチカンとの関わりにまで触れる余裕は無い。ただこれらにイスラムの「穏健派」まで加えて、将来の『統一一神教』とでも言えそうな巨大カルト集団とそれによる神権政治の形成に向けて、米国社会がじわじわと動いて行きつつあるように、そしてそれが現代バチカン基本方針であるように、私の目には映る。


[「草の根」からユダヤ人社会へ]

 2002年にエンロンと共に不正経理やインサイダー取引などで騒がれた会社の一つにタイコ・インターナショナルがあるのだが、その最高顧問弁護士がマーク・ベルニックである。彼は富豪であり非常に熱心なユダヤ教徒でいくつかのユダヤ人団体で中心的な働きをする活動家でもあった。ところが2000年に突然カトリックに鞍替えし、米国のユダヤ人社会に大きな衝撃を走らせた。
 その他、ウォールストリートの著名なエコノミストであるラリー・クドゥロウ、投資家のルイス・レールマン、以前は堕胎推進活動家として勇名をはせたバーナード・ナサンソン、テレビや新聞で辛口の論評で人気のある保守系政治評論家ロバート・ノヴァック、大手出版社社主アルフレッド・レグネリィ、カンザスの共和党上院議員サム・ブラウンバックなども、カトリックに改宗した米国ユダヤ系の有名人たちである。
 彼らには一つの共通点がある。それはあるオプス・デイのカトリック僧から洗礼を受けてこの教団のメンバーとなっている、という点だ。その神父の名はジョン・マックロウスキィ。この男もやはりポーランドあたりのユダヤ系ではないかと思われるが、まだ50歳前後と若く奇妙に神秘的な魅力のある人物らしい。ユダヤ人だけではなく元ルター派の女性牧師ジェニファー・フェラーラは彼に会ってからカトリック(オプス・デイ)に改宗した。かつてウォーターゲート事件を担当した最高裁判事ロバート・ボークも同様である。また先ほど申し上げた上院議員リック・サントラムは極めてユダヤ人(右派)と親しい。
 このように近年米国で、ユダヤ人社会を中心とした中以上の階層の中でオプス・デイの勢力拡大が目立っている。これは彼らが単に政治的・経済的な影響力を持っているばかりではない。むしろこの教団が持つ基本理念自体がユダヤ人にとって極めて親和性の強いものだからであろう。その上にジョン・マックロウスキィのような彼らの琴線に触れる卓越した対話能力を持つ宣教師がいるようだ。このような社会的に影響力を持つ「改宗」ユダヤ人たちは米国内の世論に対してばかりでなくユダヤ人社会とバチカンを結びつける重要なファクターとなるはずだ。バチカン上層部だけではなく、このようなユダヤ中産市民の「草の根」からの浸透ぶりにも注目しなければならない。

[21世紀の神聖同盟:第6部のまとめと次回予告]

 「オプス・デイはドルのカトリック化だ」と言ったフアン・ペロンの言葉が妙に気にかかる。大量のナチ逃亡者を引き受け歴史の裏面を知り抜いていたこのアルゼンチンの独裁者は、この教団がやがて米国社会の変貌を担う力の重要な一つになることを予告したのだろうか。
 18世紀の神聖同盟はフランス革命後の社会変革を推し止めようとして崩れ去った。しかし今日、「冷戦」を演出した後、新たに「対テロ戦争」体制を作りつつある欧米各国の軍と産、そして宗教の間の新たな「神聖同盟」は、逆に従来の秩序を推し崩しながらより強大な世界支配構造の構築を模索しているように見える。
 そしてその21世紀の神聖同盟の中でもう一つ忘れてはならない要素がある。ユダヤである。ただし私は「ユダヤ・プロトコール」を基本テキストにしてユダヤ人による世界支配の陰謀を語るような立場はとらない。事実として起こっている事を元にして、彼らを含めた主要な勢力同士の絡み合いを分析していくのみである。
 次回は「十字架とダビデの星」と題して、将来の実質的融合を目指すと思われるバチカン=オプス・デイとユダヤとの係わり合いについて検討してみよう。

第7部:十字架とダビデの星(上)

http://bcndoujimaru.web.fc2.com/archive/Holy_Mafia_Opus_Dei-07.html

(2005年10月)
《注記:以下で単に「ユダヤ」と書いているものは英語でいえばJewryであり、ユダヤ人一般を指すものではない。これについてはイズラエル・シャミールによるこちらの文章を参照のこと。》

[ローマ教会の変質とオプス・デイ]

 前回で私は、米国社会でブッシュ・ネオコン政府を支えるユダヤ系中産階級をオプス・デイが盛んに取り込んでいる様子をお伝えした。しかし彼らにとって改宗は一大事ではないのか。いくら説教師ジョン・マックロウスキィの話術が巧みだとしてもそう簡単なことではないはずだ。確かにオプス・デイはバチカンを操り米国政府内への影響力も強いのだが、それならシオニスト勢力も同様でわざわざ宗旨替えまでする必要は無く、この教団の外で「協力者」の形で留まることも可能なのである。「ユダヤ人への迫害」があった過去とは違い改宗への圧力は無い。なぜ彼らは簡単に自分の今までの信仰を捨ててこの教団に加わるのだろうか。
 本人も周囲も改宗にはさほど大きな抵抗は持っていないようである。これはひょっとすると、オプス・デイのあり方がユダヤ教とあまり離れておらず、ユダヤ人社会が「近縁の集団」という感覚をもってそれを見ているからではないだろうか。
 ここでオプス・デイ自体から少し離れて、第2バチカン公会議(1963~65)を中心にカトリック近代史全般を見直してみる必要があるだろう。20世紀中盤にローマ・カトリックが変身する過程で頭角を現したのがオプス・デイなのである。同時にここにはユダヤ人とその巨大な思想潮流であるシオニズムが深く関与しているのだ。


[ロスチャイルドとノガーラ]

 バチカンとユダヤ資本の雄ロスチャイルド家との取引は19世紀初期にはすでに始まっていた。ナポレオン戦争によって財政的な困難を抱えたローマ教会は、グレゴリオ16世の時期にロンドンのカルマン・ロスチャイルドから5百万ポンドもの融資を受けていたのである。また1830年にはそれまで「金貸しは破門」とされていたラテラノ公会議の既定が改められ、「高利貸しでない限り許される」こととなった。これによって改宗ユダヤ人たちの金融活動も表立って可能となる。
 1870年のイタリア統一の完成によって全ての教皇領を奪われたローマ教会は領地からの収入を絶たれ深刻な財政難に陥った。このときに資金援助を行ったのがパリのロスチャイルド家である。その後1929年にムッソリーニ政権とピオ11世との間でラテラノ条約が結ばれた。これによってバチカンは、当時のレートで8500万ドル、現在の約1500億円にあたる収入を得た上に、毎年イタリア政府からの資金提供を受けることとなった。さらにイタリア国内にあるバチカン所有の施設に(後にバチカンが行う投資にも)対しては非課税とされた。そして同じ1929年に教皇ピオ11世はバチカン内に「財産管理局」を作り、その運営を改宗ユダヤ人の一般信徒であるベルナルディーノ・ノガーラに一任した。当然だがこのことはノガーラがパリやロンドンのロスチャイルド家の信任を得ていたことを示している。
 このようにローマは、ユダヤ人に「キリスト殺し」の汚名を着せる方針とは裏腹に、ユダヤ資本と表裏一体で活動してきた、といえる。逆に言えばカトリックの「反ユダヤ主義」はこの関係を覆い隠す煙幕としても機能したのだろう。ちなみにラテラノ条約締結の前年1928年にマドリッドでオプス・デイが誕生している。また財政管理局は1942年に「宗教活動協会(IOR)」俗に言うバチカン銀行と改名された。
 欧州が戦争に向かうことに気付いたノガーラはイタリアの軍需産業の多くに、事実上企業を買い取るまでに投資した。こうしてムッソリーニ政権によるアビシニア侵攻とそれに続く第2次世界大戦の間に、ヒトラーからの「教会税」収入、イタリアおよび各国の軍需関連産業からの収益などで、バチカンは巨万の富を稼ぐことになる。米国の「黒い法王」フランシス・スペルマン枢機卿はノガーラの偉大さを「イエス・キリストに次ぐ」と表現した。本音は「キリストよりも」だったろうが。
 もっとも、教皇ピオ12世とその一族であるパセッリ家、後にバチカン銀行総裁となるP2マフィアの統領ミケーレ・シンドーナや「シカゴのゴッドファーザー」ポール・マーチンクスらが作り上げた、麻薬や武器取引等の闇資金洗浄による「上がり」を含む収益は、ノガーラのそれよりもはるかに大きいと言われている。しかしその先鞭をつけたのはこの男である。
 バチカンとユダヤとの関係は財政面にとどまるはずがなかった。ローマ教会がローマ帝国の延長であり、欧州、ひいては世界の政治的支配を目指す方向性を内包している以上、バチカンとユダヤの関係は次の局面に向かわざるを得ないのだ。
 なお、バチカン銀行の資産運用は長年アンブロシアーノ銀行が行っていたが、例のP2がらみのスキャンダルで1982年に同銀行が倒産して以来、主にロスチャイルド銀行とクレディ・スイス銀行が行っている。

[シヨン運動と第2バチカン公会議]

 1910年、時のローマ教皇ピオ10世は特別の回勅によって、あるカトリック内の団体を厳しく非難しその活動停止と解散を命じた。その団体とはフランス人マルク・サンニエが率いるシヨン(Sillon)運動である。
 サンニエはカトリックに「自由、平等、友愛」のフランス革命の理想を導入し、社会主義的な改革運動を起こして1894年に機関紙ル・シヨンを創刊した。教皇庁は、当初は貧しい労働者や農民たちに対する救済活動、カトリック精神に基づいた慈善として評価したが、やがてそれが良心への信頼と信教の自由、聖職者と平信徒の平等など、教会の根本を揺るがしかねない側面が強調されるに及んで、これを厳しく取り締まった。教皇は、この運動が持つ、カトリックを滅ぼし「世界統一宗教」を形作るフリーメーソン的な方向性を見抜いたのである。
《注記:この点については、ひょっとすると、「イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム」の「第10部 近代欧州史の深奥 」にある「[偽預言者の系譜]」の中にある内容と関係があるのかもしれない。》
 サンニエはピオ10世の命令に素直に従いシヨン運動を自ら解散させたが、彼自身はその後、国会議員を何期も務めユースホステルの普及に尽力するなど、キリスト教民主主義左派の政治家として活躍し、1950年に他界した。
 このシヨン運動の持つ様々な面が後の第2バチカン公会議での決定事項と余りにも多くの共通点を持っていることには驚かされる。
 第2バチカン公会議における数多くの改革の中で最重要ポイントは次の三つであろう。【1】信教の自由と人間の良心への信頼(Dignitatis Humanae)、【2】非キリスト教との対話と協調(Nostra Aetate)、【3】教会と一般世俗社会との密接で積極的な関係作り(Gaudium et Spes およびApostolicam Actuositatem)。
 これらはすべてサンニエの運動によって提唱・実行されたものであり、またオプス・デイおよびイエズス会「解放の神学」派によって強力に実現されている。ただしその前者はより資本主義的、強権的であり、後者はより社会主義的、リベラルであって、冷戦の時代にはそれぞれ「右派」「左派」として厳しく対立することとなった。
 ピオ10世によって断ち切られたはずのシヨン運動は、実はそれ以降のローマ教会の中に深く浸透しいつの間にか主流派を形作っていたのである。教皇がシヨン関係者を全員破門しなかったことは彼にとって最大の失敗だっただろう。
 ここで二人の人物に注目したい。一人はベルギーのジョゼフ・カルディジン(第2公会議の際には枢機卿)、そしてもう一人がイタリアのアンジェロ・ロンカッリ(後の教皇ヨハネス23世)である。
 まずカルディジン(1882~1967)だが、彼は1925年(一説には1912年)に作られたベルギーのカトリック団体「キリスト教青年労働者運動」の初代の主任司祭である。この団体はシヨン運動の理念をそのまま引き継いだといえる青年組織であり、現在でも存在する。
 彼は同時に第2バチカン公会議の主役の一人であり、先ほどの改革の中で、【1】「信教の自由と人間の良心への信頼」と「【3】教会と一般世俗社会との密接で積極的な関係作り」の原稿作成には、彼とその仲間であるピエトロ・パヴァン神父が中心的に関わった。彼らはその他多くの案文作成に参加したが、信教の自由に関する部分は米国のイエズス会士でスペルマンの愛弟子ジョン・コートニー・マレー神父が仕上げた。
 次のロンカッリ(1881~1963)だが、1950年にマルク・サンニエが死亡した直後にその未亡人に手紙を出し、シヨン運動とサンニエを絶賛している。要するにバチカン中枢部にあって「隠れシヨン」の筆頭だったのだ。彼が教皇に選出された不審な経過については後述するが、1958年に教皇位について直ちに公会議召集を発表し、死亡するまでのわずか5年間の任期をこの公会議のために捧げ尽くした。まさにそのためだけに教皇になったような男だったのだが、同時に彼はシオニスト・ユダヤ組織との深い関係を指摘されている。
 彼は先ほどの「【2】非キリスト教(特にユダヤ教)との対話と協調」に力を注いだが、これによって同時に、キリスト教内他宗派との一致運動であるエキュメニズムも大々的に進められることとなった。オプス・デイの創始者ホセ・マリア・エスクリバーは、「すでに1950年に聖座はオプス・デイがカトリックでない人やキリスト者でない人々を協力者として受け入れることを認めた」と豪語した。彼はヨハネス23世に「私は教皇様からエキュメニズムを学んだのではありません」とまで語っている。
 オプス・デイは「シヨン運動」について直接に言及はしていないが、教団支持者でバチカン国務長官のアンジェロ・ソダノが、シヨンの延長である「キリスト教青年労働者運動」を絶賛した。またオプス・デイの操り人形ヨハネ・パウロ2世はシヨンの基本精神であったフランス革命の理念をシラク大統領の前で褒め称えたのである。「自由、平等、友愛」というフリーメーソンの合言葉は、本来のカトリックから最も忌み嫌われたものであったのだ。オプス・デイの思想と理念に関してはいずれ稿を改めて詳しくご説明することにしたいが、シヨンとの類似性は明らかである。
 ところでこのシヨン運動つまりシヨニズムは、フランス語の発音ではシオニズムと似ておりしばしば間違えられたという。また第1回シオニスト会議がスイスのバーゼルで開かれたのが1897年であり両者はほぼ同時期に活動を始めている。しかしそれ以外にこの二つは実質的な接触点をも持っている。ここでやはりヨハネス23世に注目しなければならない。このイタリア人がシヨンとシオンを結びつける鍵を握っているのだ。

[1958年のバチカン・クーデター]

 ヒトラーとファシズムを支持しマモン(貨幣の悪魔)の教皇であったピオ12世が死亡して、シヨン運動の賛美者アンジェロ・ロンカッリがヨハネス23世となったのが1958年のコンクラーベ(教皇選出の選挙)だったのだが、この選出には現在までも重大な疑惑が叫ばれている。
 システィナ礼拝堂に集まった枢機卿たちによる3回目の投票の後、礼拝堂から「新教皇誕生」を告げる白い煙が上がった。FBIによるとこのときジュセッペ・シリ枢機卿(1906~89)が選出されたそうである。彼には「グレゴリオ17世」の名前が用意された。しかし理由は分からないが、じきにその「白い煙」は取り消され、再度投票が行われて選出されたのがロンカッリである。
 コンクラーベには秘密主義が貫かれており、そのときの様子を書き残す文書は公表されない。しかし人の口に戸を立てることは不可能だ。現在でも一部のカトリック信徒はこのコンクラーベでシリが選出されたことを固く信じている。
 シリはピオ10世の流れを汲む伝統主義的カトリックであり、この「グレゴリオ17世」が即位していたならば公会議が召集されることは絶対に無かっただろう。噂によるとシリは、彼が教皇になれば「東欧でカトリック教徒のボグロム(集団虐殺)が起こる」という情報を聞いて辞退を決意したという。東欧は宗教を禁圧する共産主義に支配されていた。彼は亡くなるまで沈黙を守ったが、1986年のインタビューで「私は秘密に縛られている。この秘密は恐ろしい。・・・。非常に深刻なことが起きている。しかし私は何も言う事ができない。」と答えているのだ。
 シリに「ボグロム」の情報を伝えたのはイエズス会神父で改宗ユダヤ人一族のマラキ・マーチンであると伝えられる。マーチンはルーヴァン・カトリック大学やオックスフォード大学、ヘブライ大学で学び、このコンクラーベの直前に僧職に就いて、やはり改宗ユダヤ人と言われるアウグスティン・ベア枢機卿の私設秘書となった。そして第2公会議ではベアと共に公会議の要点の「【2】非キリスト教との対話と協調」の原案作成に力を尽くした。そしてそのメドが付いた64年にバチカンの僧侶を辞め、以後作家として活躍して1999年に死亡した。
 6年の間バチカンに入り込んだこの男の目的は、ヨハネス23世を誕生させて公会議を準備し、カトリックとユダヤを結びつけることであったのだろう。その背後には世界ユダヤ人会議やフリーメーソンのユダヤ・ロッジであるブナイ・ブリスがいたといわれ、保守的カトリック信徒の中には彼を「シオニストのスパイ」と非難する人もいる。
 幻の「グレゴリオ17世」の話が事実ならまさにクーデターに他なるまい。バチカン・クーデターはその後に起こったヨハネ・パウロ1世の怪死の際にもささやかれた。そしてそのどちらにも国際的なユダヤ勢力の影がちらつく。

[そして公会議:第7部のまとめと次回予告]

 ヨハネス23世(アンジェロ・ロンカッリ)は教皇に就任するが早いか公会議の召集を検討し始めた。準備期間を経て1962年10月に公会議は始まり、途中の63年6月にはヨハネス23世死去のため中断したが、跡を継いだパウロ6世(その選出にも多くの疑惑がささやかれている)の尽力によって、1965年12月にこのカトリック大改造は完成した。そしてこの、ちょうどサナギから成虫の姿を現すような変身の中から、オプス・デイが大きく姿を現してくるのである。
 しかしそれにしても、この「クーデター」の可能性すらある疑惑のコンクラーベで選ばれ、第2公会議のためだけに教皇位を全うしたヨハネス23世とはどんな人物だったのか。彼とユダヤ・シオニスト勢力、およびオプス・デイとの関係は何なのか。この公会議で何がどのように変わったのか。次回『第7部:十字架とダビデの星(中)』では、現代世界史の最も重要な鍵の一つを握るこの教皇とその背後関係、そして第2バチカン公会議の中身を中心に述べていくことにしたい。

第8部:十字架とダビデの星(中)

http://bcndoujimaru.web.fc2.com/archive/Holy_Mafia_Opus_Dei-08.html

(2005年12月)
《注記:以下で単に「ユダヤ」と書いているものは英語でいえばJewryであり、ユダヤ人一般を指すものではない。これについてはイズラエル・シャミールによるこちらの文章を参照のこと。》

[ヨハネス23世とシオニスト・ユダヤ]

 アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリは、1881年に貧しい小作農の息子としてイタリアの片田舎に生まれた。彼は後に教皇ヨハネス23世となるのだが、それまでの彼の経歴の中に注目すべき時期がある。
 1935年から44年にかけてロンカッリ大司教はバチカンの大使としてトルコおよびギリシャにいた。その地で、彼は自分のオフィスを使って、ナチス・ドイツの手から逃れる数万人とも言われる東欧のユダヤ人たちをパレスチナへ移送するのために、あらゆる手を尽したのである。
《注記:この点については「イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム」の「第9部 近代十字軍」にある「[トルコとイスラエル]」を参照のこと》
 東欧一帯のカトリック司教会に命じて、衣服や食料の支給などはもとより、大量の偽の改宗証明書を安全確保の手段としてユダヤ人たちに渡す、カトリック修道会の通信網をシオニスト・エージェントに使わせる、といったことまで行った。
 現在までもロンカッリはADLなどのシオニスト組織から絶賛されている。後に彼がヨハネス23世として聖座に上ったときに、ユダヤ人たちが支配力を持つニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなどの米国の大新聞は一様に歓迎の意を表明した。それまではユダヤ人に「キリスト殺し」の汚名を着せるローマ教会に対して常に冷ややかな報道をしていたのである。
 また1963年に彼が死去した後に創設されたヨハネス23世基金は、ボローニャ大学と提携して、特にキリスト教とユダヤ教の相互理解を目的とした宗教研究と交流を行っている。また彼の名をとったロンカッリ委員会は、世界各国の閣僚クラスや市長、科学者、作家、ホロコースト研究者、ユダヤ教とキリスト教の関係者などを集め、「ロンカッリによるユダヤ人救出とホロコーストの事実」を踏まえて、彼の徳を称えると同時にホロコースト史観の徹底に努めている。
 この261代ローマ教皇の選出の際に起こったとされる不可解な出来事と彼の第2バチカン公会議(1962-65)に果した役割については、前回ご説明した。しかし彼に関する不可解な点は1958年に行われた教皇選挙のコンクラーベばかりではない。彼とシオニスト・ユダヤとの関係は相当に深い根を持っている可能性がある。
 彼は1905年に正式にカトリックの僧侶となった。彼がどのような経緯でバチカンの上層部に食い入ったのかは分からないが、1921年にベネディクト15世によって信仰伝道会のイタリア代表に任命された。1925年にはピオ11世によって、バチカン大使に相当する役職でブルガリアに派遣され、同時にギリシャの名誉司教にも就いている。そして1935年に、ピオ11世の命で大司教としてトルコへと向かったのである。
 それにしても、ローマ教会のような千数百年の歴史を持ち「伏魔殿」とすらいわれる巨大な権力機構の中で、一介の貧しい農民の息子が次々と要職の階段を登り教皇の座に就くまでになる、というのは少々現実味に欠ける。彼の前任者エウジェニオ・パセッリ(ピオ12世)は歴代の教皇を輩出してきた高名な貴族の家柄であり、その前のピオ11世(アチッレ・ラッティ)は大富豪の絹織物工場所有者の息子、ロッカッリの後に続くパウロ6世(ジョバンニ・モンティーニ)もやはり貴族出身の身である。
 通常このような組織の中では、本人に家柄や財産などが無い限り、あるいは背後に余程の強力な支援者が控えていない限り、こういったことは考えにくい。さらに、ユダヤ人への敵意をむき出しにするヒトラーがドイツで政権を握り、一方でパレスチナでは建国へ向けたシオニストたちの活動が盛んになっていくその時期に、このロンカッリがユダヤ人口の多い東欧のブルガリア、次に、大きな権限を行使できる立場で欧州とパレスチナの中間にあるトルコとギリシャに派遣されるというのは、偶然にしてはできすぎている。
 1905年から25年までにかけての彼に関する詳しい資料は今のところ見つけていない。一つの仮定としてなのだが、ロンカッリは早い時期からシオニスト・ユダヤ勢力との接触を持っており、シオニストの背後にいてバチカンと財政面でつながっているロスチャイルド家あたりの後援があったのではないか。
 もしそうだとすれば、シオニスト・ユダヤへの協力は彼の一存ではなくバチカンの深い方針でもあったはずだ。ヒトラーに協力したと非難されるピオ12世だが、ロンカッリの行動を把握していなかったはずは無い。また当時のバチカンにはシオニズムに対する懸念と敵意も存在していたのだ。しかし不思議なことにこの「ヒトラーの教皇」は、彼の行動を咎めたり妨害したりするどころか、1944年に彼をナチスから解放されたばかりのパリの大使に、そして1953年には枢機卿へと昇進させているのである。これはつまるところ、ピオ12世にとって「ヒトラーへの協力」と「シオニストへの協力」が決して矛盾していなかったことを表しているのではないか。
《注記:この点については「イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム」の「第6部 イスラエルの母胎:ナチスドイツ」の中にある「[ヒトラーが「育てた」シオニズム]」に書かれている事実から見れば当然かもしれない。》
 さらにロンカッリにはマルク・サンニエのシヨン運動との深いつながりもある。この運動がフランス革命以来の反教会主義に貫かれている点を考えると、単なるユダヤ民族主義としてのシオニズムではなくもっと深く大きな力が関与している可能性がある。もちろんカトリック守旧派はそれをフリーメーソンであると断言する。またシヨン運動の中心地であったパリにはロスチャイルド家も控えている。しかしそれに関しては、今の私にはまだはっきりと言える段階ではない。
 なおロンカッリは2000年にヨハネ・パウロ2世の手によって福者に列せられている。


[ベアとケーニッヒ]

 「シオニストの友」ロンカッリが全生命力をつぎ込んで開催にこぎつけた第2バチカン公会議だが、その最も重要な改革ポイントの一つが「非キリスト教との対話と協調」の路線、特にユダヤ教とユダヤ人に対する姿勢の劇的な変化だろう。それを最も精力的に推進させた二人の人物がいる。ドイツ人イエズス会士であるアウグスティン・ベア枢機卿、およびオーストリアの枢機卿フランツ・ケーニッヒである。
 この二人に共通するのは、ドイツ語圏の出身であることと同時に、オプス・デイの創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーと親しかった点である。彼自身は公会議には参加しなかったが、オプス・デイが言うところの「エスクリバー・デ・バラゲル師の友人たち」がこの会議を取り仕切っていた。
 もちろん「非キリスト教との対話と協調」は、他のイスラム教や仏教などとの関係もうたっているし、同時にキリスト教の他の諸宗派、つまりプロテスタント各宗派や正教などとの教会一致(エキュメニカル)にも関係が深いのだが、その中でもユダヤ教との関係強化の動きは抜きん出ているのだ。
 ベアは以前からピオ12世の聴罪師を務めるなどバチカンの中で大きな実権を握っていたのだが、実は彼がベジャールという本名を持つ改宗ユダヤ人である、という説は根強い。中には「非改宗ユダヤ人」つまり「バチカン内のユダヤ教徒」とまで呼ぶ人もいる。確かに彼のユダヤ人およびユダヤ教への「偏向ぶり」は際立っていた。
 その口実となったのがナチス・ドイツによるユダヤ人への迫害、とりわけ「ホロコースト」であったことは言うまでも無い。彼はカトリックの変革にこれを脅迫的にと言ってよいほど最大限に活用した。
 ベアは公会議終了後まもなく1968年に死去したが、彼の名を冠した「ユダヤ研究のためのベア枢機卿センター」では積極的にキリスト教とユダヤ教の融合が研究されているようである。現在その動きはやはりドイツ出身のワルター・キャスパー枢機卿によって引き継がれている。
 もう一人のケーニッヒもベアと同様に第2公会議での「非キリスト教との対話と協調」路線確立に尽力しただけではなく、その後も長くウイーンの大司教としてキリスト教徒とユダヤ教徒の「兄弟愛に基づく関係」を築くための努力を惜しまなかった。彼は、「ホロコースト」に対してキリスト教徒とオーストリアが持つ共同の責任を無条件に認め、オーストリアの政治指導者による「明確な謝罪」を実現させた。現在この国はドイツやフランスなどと並び「ホロコーストへの疑問を犯罪と定める」国の一つである。
 また奇妙なことにケーニッヒはヨハネス23世が誕生する直前に枢機卿となっており、以来「キングメーカー」を噂されてきたのである。そして、1978年のヨハネ・パウロ1世の奇怪な死の後で行われたコンクラーベで、無名だったポーランドのカロル・ヴォイティーワ枢機卿を強力に推薦してヨハネ・パウロ2世を誕生させたのが彼であったことも強調しておかねばならない。
 ヴォイティーワについては次回に詳しく説明するが、彼自身がユダヤ系であるとする主張もある。その真偽はともかく、ユダヤ人たちとの親密さで有名な人物であることに間違いは無い。そしてヨハネ・パウロ1世の死とヴォイティーワの教皇就任の裏には、単にオプス・デイやシオニスト勢力だけではなく、共産圏の解体を目指すCIAなどの謀略機関と英米支配層、そしてフリーメーソンP2ロッジが潜んでいたことだろう。
《注記:カロル・ヴォイティーワがユダヤ系であることは英国のユダヤ人歴史家によって2005年に明らかにされている。》
 また現在のバチカン中枢部では、ドイツ人教皇ベネディクト16世(ヨーゼフ・ラツィンガー)、およびウィーン大司教でケーニッヒの後継者クリストフ・シェンボーン枢機卿は、イスラエルから全面的な信頼を寄せられている。シェンボーンはカトリック・シオニストとしての立場を明確にしているのである。なおラツィンガーは第2公会議では改革派の急先鋒の一人だった。

[「リベラル教皇」パウロ6世]

 1963年、第2バチカン公会議の最中に教皇ロンカッリは死亡した。その跡を継いで公会議を成功裏に終了させたのがジョバンニ・モンティーニ(教皇パウロ6世)である。モンティーニはピオ12世の後継者としても有力候補と言われていたのだが、ピオ12世はなぜか彼に枢機卿の座を与えず、1958年に疑惑に満ちた経過を経て誰もが予想しなかったヨハネス23世が誕生したのである。
 しかし奇妙なことはこのモンティーニを選出した1963年のコンクラーベの際にも起こった、と言われる。前回申し上げた守旧派のジュゼッペ・シリ枢機卿がやはりこのときにも最有力候補と言われていた。そして――ここから先は未確認情報だが――投票の結果シリ枢機卿が選出に十分な票を集めた。そのときある一人の枢機卿(ケーニッヒか?)がシスティナ礼拝堂から忍び出て、外で待つブナイ・ブリス(フリーメーソンのユダヤ・ロッジ)の要員に結果を告げた。返答は、カトリック教会に対する虐殺が起こる、という脅迫であった。その枢機卿は礼拝堂に戻りモンティーニを選出させた・・・・。
 もちろんこのような話の真偽など確かめようが無い。しかしカトリック守旧派は今でもこのときのシリ選出を固く信じている。確実に言えるのは、もしもシリが教皇に選ばれていたら第2バチカン公会議は中止されていただろう、ということだけである。当のシリは「私は秘密に縛られている。この秘密は恐ろしい。」と言い残し、沈黙を守ったまま1989年にこの世を去ってしまったのだ。
 モンティーニは公会議で「信教の自由」を高く評価し、カトリックの戒律を大幅に改め、エキュメニカル運動の推進者となった。そして前任者のロンカッリ同様にベアやケーニッヒと手と携えて「非キリスト教との対話と協調」路線の確立に力を注いだ。彼はユダヤ教神学者アブラハム・ヘシェルとの間で秘密会議を持ち、その要望を受け入れてユダヤ人の改宗に関する規定を削除した。
 さらにこのパウロ6世は、ユダヤ教やイスラム教などの非キリスト教も真実の神を崇拝しておりイエス・キリストへの忠誠無しで救済を受ける、とおおやけに発言した最初のローマ教皇である。その姿勢はヨハネ・パウロ2世にも引き継がれた。旧来の熱心なカトリック信徒にしてみれば青天の霹靂ともいえる事柄だっただろう。しかしローマを疑うことを知らぬ多数派の信徒たちはこの改革を受け入れた。
 彼の「自由化路線」は信仰だけにとどまらず、ついにはローマ市内で堕胎をおおっぴらに行う病院まで出現させた。このような「自由化」の行き過ぎを指摘され、さすがのモンティーニも声を上げて泣き出した、と言われる。
 このようなあまりに急激な変化を推進したため、彼は、カトリック伝統保守派から最も非難される教皇の一人となった。そして彼にもやはり「ユダヤ人疑惑」があるのだが、それに関しては何とも言いようが無い。
 面白いことがある。ローマ教皇が就任する際には7世紀以来の伝統として「教皇の誓い」を読み上げる習慣があった。ピオ10世(在位1903-14)以降はそれが「近代主義に反対する誓い」と解釈されたようだ。そして、守旧派によると、それはパウロ6世までのすべての教皇によって誓われたのだが、その後ヨハネ・パウロ1世、同2世、ベネディクト16世によっては無視されたそうである。
 しかしパウロ6世は紛れも無くリベラルな近代主義教皇であった。そして第2バチカン公会議とこの教皇の在位中(1963-78)に、ロック・ミュージックの爆発的流行およびそれと併行したLSDや大麻などのドラッグ、ヒッピーの出現とニューエィジ・ムーヴメントなどなど、世界中でそれ以前の価値観や文明観を片っ端から激しく壊していく動きが、若者層を中心に広がっていった。このような文化の流れを、ある謀略的な集団によって意図的に作られたものだ、と考える人もいる。
 今のところ私はそれに関しては何とも言えないが確かに偶然とは思えないフシもある。これは後年の研究課題としておこう。

[「ユダヤの陰謀」か?:第8部のまとめと次回予告]

 今回は直接にオプス・デイへの言及を行うようなテーマではなかったが、今回述べた第2バチカン公会議での変化を通して、この教団はローマ教会の中で確固たる勢力拡張を成し遂げた。またこの教団の創始者であるエスクリバー自身が改宗ユダヤ人の子孫である可能性が高い。スペインでオプス・デイの庇護者となった独裁者フランシスコ・フランコにしても同様である。
 カトリック守旧派で反ユダヤ感情の強いグループでは、ヨハネス23世以降の各教皇とこの公会議、そしてオプス・デイの台頭などを、すべてひっくるめて「ユダヤ=フリーメーソンの陰謀」とする傾向が強い。これには、例の「シオン長老の議定書」を下敷きにしてあらゆるけしからぬ動きや変化に「ユダヤ臭」を嗅ぎ取る、典型的な「陰謀論」の影響があると思われる。
 確かにいたるところにシオニスト・ユダヤの影がちらつくし、実際に彼らが相当に強くバチカンに力を及ぼしたことは間違いの無い事実だろう。しかしこのような「ユダヤの陰謀」論は、しょせんは例の「知的計画による創造論」と同一レベルの変形一神教、知的退廃としか思えない。私としては、調査と研究、大胆な推論、綿密な検証と修正による認識の深化あるのみである。
 次回、「十字架とダビデの星(下)」では、オプス・デイとその傀儡教皇ヨハネ・パウロ2世を中心に、カトリックとユダヤ勢力(シオニスト)との関係を検討していくことにしたい。

第9部:十字架とダビデの星(下)

http://bcndoujimaru.web.fc2.com/archive/Holy_Mafia_Opus_Dei-09.html

(2006年3月)
《注記:以下で単に「ユダヤ」と書いているものは英語でいえばJewryであり、ユダヤ人一般を指すものではない。これについてはイズラエル・シャミールによるこちらの文章を参照のこと。》

[ユダヤ人教皇ヨハネ・パウロ2世]

 2005年4月、前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が死去したすぐあとのことだが、英国の新聞メトロ紙が次のような内容の記事を掲載した。
 《英国マンチェスター在住の正統派ユダヤ歴史・哲学研究家ヤアコヴ・ワイズの研究によると、前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(カロル・ヴォイティーワ)の母親、祖母、曾祖母がすべてユダヤ系であった。》
 ヴォイティーワがユダヤ系であることは以前から一部で指摘されていたことだが、生前にこれを語ることはタブーだった。しかし彼の極めて強い親ユダヤ性はいやでも人目を引かざるを得なかったのである。
 カロル・ジョゼフ・ヴォイティーワは1920年5月18日に南部ポーランドのヴァドヴィツェで生まれた。この町は第2次世界大戦の前には多くのユダヤ人が住んでおり、彼はそこでユダヤ人社会との極めて強い接触を持っていたようである。ネット百科辞典ウイキペディアはカロル少年がヴァドヴィツェのユダヤ人の子供たちと共にサッカーを楽しんでいた、という逸話を紹介している。
 バチカンの情報誌Znet.orgは彼が死亡するやや前の2005年1月に次のような話を掲載した。あるポーランド人の夫婦がユダヤ人の幼い男の子を預かった。彼の両親はナチによって連行され二度と戻ってこなかった。夫婦はナチを恐れその子供にカトリックの洗礼を受けさせようとしてクラコウの教会に行ったが、若い神父は洗礼を拒否した。子供の『ユダヤ人としてのアイデンティティを尊重するがゆえに』である。その子供は無事に成人となり後に米国に渡った。そしてヨハネ・パウロ2世が就任した年に、育ての親からその神父がカロル・ヴォイティーワであることを聞かされたのだ。
 欧州のユダヤ人社会の中でこの教皇に対する信頼は圧倒的だった。彼は幼友達のユダヤ人であるジャーズィ・クルガーの多大の影響を受けながらイスラエルとユダヤ教に関するバチカンの政策を決めていた、といわれる。
 この教皇は倫理や政治姿勢の面では極めて保守的であったが、宗教面では次々とカトリックの伝統を打ち破った。ユダヤ教とイスラム教に対して「同一の神をあがめる宗教」でありイエス・キリストに対する忠誠無しでも「救済される」としたのだ。先ほどのユダヤ人少年に関する逸話がヴォイティーワの死の前にバチカンの雑誌に載ったことは意味深長である。一方で彼のバチカンは、カトリックの教義をヒンズー教徒や仏教徒にも理解出来るように再構築しようとしたスリランカのベラスリヤ神父を、キリストによる救いなどの根本的な教義を否定するとして破門に処した。これに直接に手を下したのが教理省長官ジョセフ・ラツィンガー(現教皇ベネディクト16世)である。
 ユダヤ教に関しては前任者のパウロ6世も同様の姿勢を打ち出してはいたが、ヨハネ・パウロ2世のユダヤに対する偏向は際立った。2000年3月に彼はカトリックの「過去の過ち」を認め神に許しを乞うミサを行ったが、これが主要にユダヤ人に対する偏見とその結果起こったとされる「ホロコースト」に対してであるのは言うまでも無い。ユダヤ人である彼が「カトリックを代表してユダヤに謝罪した」のだ。
 1978年にこの全く無名だった男が「ミスター冷戦」となるべく教皇位に就いた裏に、極めて親ユダヤ的なオーストリアの枢機卿フランツ・ケーニッヒがいたことは前回(第8部 )でも触れた。そしてそこに米国支配層の意思と同時にユダヤ組織の介入があった可能性は否めない。偶然かもしれないがその前年にイスラエルで、リクード党首で元イルグン・テロリストのメナヘム・ベギンが首相となっている。

[オプス・デイ創始者のユダヤ起源]

 カロル・ヴォイティーワがオプス・デイの創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーに心酔していたことは有名である。彼は教皇に選出される直前、その3年前に死亡したエスクリバーの墓の前に跪いて懸命に祈っていた。ヨハネ・パウロ2世は教皇就任後に、オプス・デイを「属人区」という特別な地位でバチカンの正式な機関とし、1992年にはその死後わずか17年でエスクリバーを福者に、その10年後の2002年には聖人へと、異常なスピードで「出世」させた。サン・ピエトロ寺院の脇には彼の巨大な彫像 すら飾られている。あの第2バチカン公会議最大の功労者であるアンジェロ・ロンカッリ(ヨハネス23世)は未だに聖人ではないのだ。
 そして、当然のごとくというべきか、このエスクリバーには「ユダヤ人説」がある 。
 彼のフル・ネームはJosemaría Escrivá de Balaguer y Albásなのだが、しかし彼が生まれたときの名前はJosé María Escriba y Albásであった。最後のAlbásは母親方の姓であるが真ん中のEscriba(エスクリーバ)は父親の姓だ。これを後にEscrivá(エスクリバー)と改名したわけなのだが、実はこのescribaというスペイン語はユダヤ教の『律法学士』を指すものである。
 スペイン人の姓の中には明らかにユダヤ起源を伝えるものがいくつかある。その代表的なものがフランコであり、あの独裁者フランシス・フランコはユダヤ系と見なされているのだ。フランコは生真面目な堅物だったのだが、結婚後に熱心なカトリック信徒である夫人の影響を受けるまでは決してミサに行かなかったといわれる。同様にキューバの首相カストロの姓もユダヤ系に多いようである。
 エスクリバーは1902年にスペイン北部のバルバストロという田舎町で生まれたが、そこには改宗ユダヤ人、スペイン語でマラノあるいはコンベルソと呼ばれる人々の子孫が多く住んでいた。スペインには1492年のカトリックによる統一の以前には数多くのセファラディ・ユダヤ人がいた。その過半数はカトリック教徒によって追放されたが一部は改宗してそのままスペインに残った。そして彼らの中には「隠れユダヤ教徒」として秘密裏にその信仰を守り続けた者もいた。
 彼が父方の姓を変えてまでその出自を隠そうとしたのはなぜか。「マラノの子孫」であることにひけ目を感じていたのか、あるいは修道院に入るのにキリストから嫌われた「律法学士」の名では不都合だと考えたのか、そのへんはわからない。ただ当時はユダヤ人に対する「キリスト殺し」の汚名と偏見がカトリック社会の中で強く根付いており、それが彼に有形無形の圧力をかけていたことは想像に難くない。
 1928年にオプス・デイを作りカトリック僧として左翼思想を敵視していたエスクリバーはスペイン内戦中にフランコと出会うのだが、フランコとオプス・デイの関係は単にお互いの利用以上のものがあったであろう。
 そして、内戦終結のわずか4年後の1943年に、オプス・デイの幹部であったラファエル・カルボ・セレルが、おそらくスペイン王政復古の画策を開始するために、スイスに亡命中のスペイン王家・ブルボン家の後継者ドン・フアンと会見している。このようなコンタクトは、欧州の「雲の上」を通して物事を動かすことの出来る巨大な力が介在しない限り、実現できるようなものではありえない。
 さらには1942年からローマへの本部移転の下準備を始め4年後の46年にエスクリバーはローマに移ったのだが、その後わずかの間に、フランスのロベール・シューマンやエドゥモン・ジスカールデスタン、イタリアのアルチデ・デ・ガスペリといった政界の大物を取り込んでいるのだ。この集団は単なる新興教団ではない。
 20世紀の前半にシオニズムとバチカンの両方に深く関わりどちらをも支えてきた要素として英仏のロスチャイルド家がある。そして後半では米国の姿が大きく浮び上がるが、彼らは同時にナチス・ドイツをも誕生させ育てた。当然だが、そのどちらにも世界の支配階層となったユダヤのマモン崇拝者たちの姿を見ることができる。
《米国とナチス・ドイツとの関係については、「イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム」の「第7部 ナチス・ドイツを育てた米国人たち」を参照のこと。
 十字架と六芒星が重なってくる。ニューヨークにあるオプス・デイ米国本部にはカトリックに付き物の聖人像や聖画は無く十字架すらほとんど目に付かない。ここに七支の燭台があればそのままシナゴーグに代ってしまうのかもしれない。『律法学士』たるエスクリバーの背後にユダヤ支配者の影が濃く映る。ヴォイティーワとエスクリバーは最初から共通の基盤の上に立っていたのだ。

[世俗的メシア主義]

 オプス・デイの教義内容に関しては次号で詳しくご説明したいが、この教団が第2バチカン公会議の「申し子」として勢力を伸ばしてきたことは今までにも申し上げた。そしてその公会議に多大な影響を与えたものが三つあることもお話してきた。一つは米合衆国憲法、二つ目はシヨン運動(フランス革命の思想)、そしてユダヤ(シオニズム)である。この三つに思想上の共通点があるとすれば、おそらく「現世主義」「世俗的メシア主義」とでもいうべきものだろう。
 以前のカトリックの特徴であった現世否定的な姿勢はこの公会議を境にほとんど消えて無くなった。旧来なら、キリストの再臨を待たない理想世界の建設は「地上の王国」の理想化であり反キリスト的な発想として糾弾されるべきものであったのが、この公会議を境に180度の変化を受けた。
 オプス・デイは、イエズス会やフランシスコ会などのような僧侶中心の組織ではなく、基本的に世俗組織である。社会のピラミッドで中~上層部を構成する実業家、知識人、法律家や政治家、エリート軍人などがその能力を最大限に発揮できるように、その教義が組まれている、と考えたらよい。
 それは一見すると、「貧民救済」の発想をイデオロギー化させたイエズス会系の「解放の神学」とは逆のように見えるが、「世俗的メシア主義」という点では全く一致している。この二つは第2公会議で生まれた『双子の兄弟』、鏡像の関係にあるものと言って構わないであろう。
 面白いことに、カトリックの変化よりも先にユダヤ教の内部で類似の大変化が起きていたのである。神が遣わすメシアの登場を待たずにパレスチナの地に戻ろうとするシオニズムの台頭である。現在でも少数派ではあるがシオニズムに頑強に反対する旧来のユダヤ教徒たちがいる。そしてそのシオニズム運動とマルク・サンニエのシヨン運動はともに19世紀後半のほぼ同時期に誕生した。
《注記:トーラーを聖典を仰ぐ正統派のユダヤ教徒たちは、神から遣わされたメシアによらずにパレスチナの地に戻ることをユダヤ教に対する冒とくであるとして、シオニズムとイスラエルを厳しく批判している。》
 さらにオプス・デイが一貫して敵視してきたマルクス主義にしても、ある種の「世俗的メシア主義」と言って差し支えないだろう。これもまた19世紀後半から主に左翼ユダヤ人たちによって急激に広められたものなのだ。もっと言えばヒトラーやムッソリーニのファシズム思想すら同様に考えることもできよう。
 そして今までに述べたどの側からも希求されるものは、それぞれにニュアンスや使用する論理は異なっていても、人間の手と意思による「理想社会」「地上の楽園」の実現であり、これらの動きの全てがそれを理論化し合理化しようとしている。そしてその果てにあるものは何であろうか。

[エルサレムへ]

 2003年7月に、イスラエルの元首相で労働党首シモン・ペレスは、エルサレムを国連の主導の元に象徴的な「世界の首都」とし国連事務総長に「市長」となるように提案した。ユダヤ人とイスラム教徒の係争地であるエルサレムを「国際化」することによってパレスチナ問題を解決しよう、というのである。ただイスラエルは従来から、バチカン主導によるエルサレムの「国際化」には一貫して反対している。
 しかし2006年になってイスラエルのアシュケナージ・チーフ・ラビであるヨナ・メツガーはチベット仏教のダライ・ラマに対して、世界の宗教家の代表による「宗教の国連」をエルサレムに設立することを提案した。ダライ・ラマは即座に歓迎の意を表したのだが、この場にはイスラム聖職者、およびローマ教会と非常に親しい米国ユダヤ人協会のラビ・デイヴィッド・ロウゼンも同席していたのである。
 ヨハネ・パウロ2世の死を受けた2005年4月のコンクラーベでベネディクト16世(ジョセフ・ラツィンガー)が選出された際に、世界各国の反応の中で米国ブッシュ政権とイスラエルの手放しの喜びようが印象的だった。ラツィンガーは長年ヴォイティーワの元で教理省長官を務め、実質的なバチカンのナンバー2であった。当然オプス・デイとは強い関係で結ばれている。彼の選出を決めたのはオプス・デイの全面協力であった。彼らはアルゼンチンのホルヘ・ベルゴリョなどの有力なライバルから支持者を引き離すべく、中南米の枢機卿を中心に猛烈な根回しを行ったのだ。
《注記:ラツィンガーが生きたまま教皇を辞めた後に教皇フランシスコとなったのがこのホルヘ・ベルゴリョである。しかしラツィンガーは「名誉教皇」としてバチカンに居座っている。これはバチカン内の激しい権力闘争を現しているのだろう。》
 ベネディクト16世も極めて親ユダヤであり、イスラエルに反感を表明するイスラム教徒たちに対しては厳しい姿勢をとり続けている。そして彼の懐刀でカトリック・シオニストのクリストフ・シェンボーンは、このコンクラーベの直前に、欧州のキリスト教徒のイスラエル支持はホロコーストへの罪悪感に基づくものではなく、シオニズムが「ユダヤ人に対する聖書の命令」だからである、と語った。
 ここでシヨン運動と対立したシャルル・モラスが20世紀初頭にマルク・サンニエに宛てた手紙の一部を引用しよう。(聖ピオ10世司祭兄弟会の翻訳による)
 《あなたはフランス語でのミサや晩課と、ローマの権威から完全に離れた聖職者を、希望していますね。そうなったら必ず残念に思うでしょう。『ローマ』が廃止されるならば、このローマとともに聖伝の一致と力が失われるでしょう。カトリック信仰に関する書き物の記念碑(聖書を指す)は、ローマから外れた宗教的影響を受けることになるでしょう。直接にテキストを、特に書簡を読むでしょうが、もしローマが説明しなければ、ユダヤ的であるこの書簡はユダヤのようにふるまうでしょう。(・・・・)ローマから離れることによって、私たちの聖職者はますますイギリス、ドイツ、スイス、ロシア、ギリシアの聖職者たちのように変わっていくでしょう。彼らは司祭から「牧師」「福音の僕」になり、ますますラビニスムに近づき、少しずつエルサレムへとあなたを導いてしまうでしょう。》
 文中の『ユダヤ的であるこの書簡』はおそらく新約聖書中の預言書ヨハネの黙示録を指すと思われる。これが『ユダヤのようにふるまう』というのは「世俗的(現世的)メシア主義で解釈する」という意味に他ならない。モラスはこの運動が持つ方向性を実に正確に見抜いていた。そしてこの流れがシオニズムと共同で第2バチカン公会議を生み、オプス・デイの台頭を導くと同時に現在のシオニスト主導のバチカンにつながる。
 すでに『ローマ』は廃止されつつありカトリックは着実にエルサレムへと導かれてきている。そして今、世界中の宗教、思想、道徳がこの都市に招かれようとしている。

[世界統一宗教?:第9部のまとめと次回予告]

 教皇ピオ10世(1903~14)は、シヨン運動を禁止するために1910年に書いた回勅の中で、この運動が「世界統一宗教」に進む方向性を敏感に感じ取り、次のような見事な予言的警告を発している。(聖ピオ10世司祭兄弟会の翻訳による)
 《そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も持ち合わせず、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、自由と人間の尊厳の名のもとに(もしもそのような「教会」が成り立っていけるならば)合法化された狡知と力の支配ならびに弱者および労苦するものらへの圧迫を世界にもたらしてしまうでしょう。》
 ピオ10世はシヨン運動に隠された「反キリスト」的性格を見抜いた。『自由と人間の尊厳の名のもとに合法化された狡知と力の支配』はネオコン主義そのままであろう。そのような世界が『世界統一宗教』とともにやってくる、というのである。そしてそれは現在、半ば達成されているように思える。その中心にあるのがエルサレムなのだ。
 次回はオプス・デイの教義内容に迫り、現代世界においてそれがいかなる方向性の持つものかを分析してみたい。

第10部:オプス・デイの思想とその方向(上)

http://bcndoujimaru.web.fc2.com/archive/Holy_Mafia_Opus_Dei-10.html

(2006年6月)

[『ダ・ヴィンチ・コード』とオプス・デイ]

 2006年5月に映画化された『ダ・ヴンチ・コード』によって、それまで日本でほとんど知る人のいなかったオプス・デイがいっぺんに有名になってしまったようだ。この作品の中で教団の実名が使用され、血みどろの修行を信者に課す薄気味の悪い超保守的な秘密教団、キリストの秘密を守るために暗殺をも平然とやってのける陰謀組織、というイメージが強く打ち出された。中にはこの教団が猛烈な抗議と反論はもとより訴訟すら辞さないのではないか、と考えた人もいただろう。しかし実際にはオプス・デイによる積極的な動きは全くといって良いほど無かった。
 彼らは「大人の対応」に終始した。ソニー映画に対する「フィクションを明確にするテロップ」の申し入れと機関紙の「反対声明」で不快感の表明は行ったが、他のキリスト教団のようなボイコット運動や街頭活動による激しい抗議や批判は一切行わなかった。奇妙なほどに冷静な対応ぶりである。
 それどころか教団の広報担当者はローマ教会の雑誌Zenitを通して「我々はイエス・キリストについて話す絶好の機会を与えられている」と語り、逆にこの映画を大いに活用すべし、という考えを明らかにした。そして「時の寵児」となっている教団の立場を次のように語った。(オプス・デイ日本語HP『聖性の誉れ』より引用。)
 《ここ数ヶ月というもの、アメリカ合衆国だけで、100万人以上の人が私たちのホームページ(http://www.opusdei.org )にアクセスしましたが、その多くは「ダ・ヴィンチ・コード」のおかげでしょう。つまり、間接的に私たちの宣伝をする結果になっているのです。》
 もちろんカトリック世界に君臨する実力をすでに身に付けているという余裕があるだろう。オプス・デイは何よりも中~上流の支配的な階層に所属する者達から成り立っており、下々の一部があの物語の通りのイメージを持ったとしても痛くも痒くもなかろう。そう思う人間には勝手に誤解させておけばよいのである。
 例えばスパイ映画でCIAの活動が脚色されて描かれているからといってCIAが抗議したなどということはない。「どうせフィクションだから」と涼しい顔をしておいた方が本当に秘密にしたい部分に触れられずに済む。実際にあの作品では、確かに教団の名前だけは「Opus Dei」だが他のことにほとんど事実はない。あの小説と映画で、オプス・デイを「米国で生まれてニューヨークに本部がある教団」「復古主義的で原理主義的な超保守教団」などと思い込んだ人も多いだろうが、ほんの少しでも調べてみるとこれらが単なる作り話であることが明白となる。
 今後は、誰かがスペインや中南米でのオプス・デイの悪業を聞いたとしても、「あの映画と同じくフィクションだ」と言えば済む。その意味でもあの作品はむしろオプス・デイにとっては実にありがたかったのではないか。
 それでは、キリストは十字架では死なずにマグダラのマリアと結婚して子供までもうけたというこの小説(映画)の内容についてはどうなのだろうか。
 本来のキリスト教の教義にとって「キリストの十字架上の死」は譲ることの出来ない中心点である。その意味を理解するには、その前提として、人間の救い難さ、つまり「原罪」についての認識が必要となる。例えば新約聖書「ローマ人への手紙」で聖パウロは絶望的なまでに高められた罪の意識を告白する。
 《わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシャ人もことごとく罪の下にあることを私たちはすでに指摘した。(ローマ人への手紙、3-9~12)》
 《わたしの内に、すなわち、わたしの肉の中には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意思は、自分にはあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。(同書、7-18,19) 》
 「原罪」というと旧約聖書のアダムとイブの話が思い浮かぶが、しかしこの聖パウロの言葉はそのような伝説上の話ではなく、いま現在生きている自分の身に染み込んで拭い去ることのできない「原罪」についてである。そこには自分自身に対する仮借の無い凝視がある。『欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている』という「罪人としての自分」に対する絶望にまで行き着いた者が求めうる唯一の救いが、イエス・キリストの「十字架上の死による罪のあがない」であった。
 本来のキリスト教は決して「愛の宗教」ではない。自らを絶望の淵に追い込みその絶望にすら見放された末にたどり着いた仏陀の悟りにも通じるところがあるかもしれない。聖パウロの「イエスの十字架上の死」に対する絶対的な信頼は、この「自らの内なる罪」への徹底したこだわり無しには到達し得ないものなのだろう。本来のキリスト教とは「罪の宗教」なのだ。
 したがってキリストの「十字架上の死による罪のあがない」はキリスト教諸派にとっては絶対的ドグマ、これを否定されたなら「救済そのもの」が否定されるという、一歩たりとも譲ることのできない大原則であるはずだ。「十字架上の死」の否定を描いた「ダ・ヴンチ・コード」に対するキリスト教各宗派による激しい抗議活動やボイコット運動は当然といえる。この小説と映画が、2006年1月から2月にかけて世界を震撼させた「モハメッド冒涜マンガ」に続く、シオニスト・ハリウッドによる「文明間の戦争」の仕掛け、キリスト教への冒涜であったことは明白である。
 それにしても、キリスト教の「本山」を自認するローマ教会の中核を担うオプス・デイが、この冒涜に対して、どうしてあそこまで「冷静な対応」ができたのだろうか。

[「人は仕事のために生まれた」]

 同じ系統の一神教でも、たとえばイスラム教であれば「救世主」を想定しない。イエス・キリストはイスラム教にとっては「大預言者」の一人である。しかし「預言者」が結婚して子供をもうけることは、イスラム教では当たり前だ。ユダヤ教にしても「メシヤ」は想定するがイエスがそれではない。またユダヤ教の「預言者」が家庭を作ることに何の不自然さも無い。しかしながらもちろん、敬虔なイスラム教徒やユダヤ教徒がこの「ダ・ヴィンチ・コード」のような宗教冒涜に接するならば、キリスト教徒の激しい怒りまではいかなくても、やはり相応の不快感を表明することだろう。
 私の目から見るとオプス・デイの姿勢はイスラム教徒やユダヤ教徒のそれ以上とは感じられない。この教団の「キリスト教」が他のキリスト教諸宗派とは異なった基盤を持っているのだろうか。そうであればあの対応の仕方にも納得がいく。
 もちろんオプス・デイでも一応キリスト教である以上「原罪」「イエスの十字架上の死」について語ってはいる。しかし圧倒的に強いイントネーションが置かれているものは「労働(仕事)の聖化」「良心と信教の自由」である。第2バチカン公会議以前のカトリックで偏執狂的なまでに強調された「原罪」「十字架」は、ほとんど意識されないほど遠くに追いやられているようだ。オプス・デイ会員の活動は等しく「使徒職」と呼ばれ、教団のHPによるとその目的は『教会の福音宣教の使命に貢献するため、生活の日々の状況、特に仕事の聖化を通じて、信仰に百パーセント合致する生き方をするよう、あらゆるキリスト者を励ますこと』とされる。
 創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーは旧約聖書の一節を「人間は仕事のため創造された」と解釈した。前回(第9部 )でも申し上げたように、彼がユダヤ系スペイン人であったことに間違いはあるまい。マラノとしての蔑視を受けざるを得なかったうえに家族の生活苦を身に染みて感じていた彼が、伝統的なキリスト教の持つ、病的なまでに「罪」を追及しその唯一の救済として「十字架」を掲げるという絶対的ドグマに対して、強い違和感と不信感を覚えていたとしても何の不思議も無い。この世での人間の活動に最大の意義を見出すことは彼にとっては決して不自然なことではなかったはずである。彼は次のように語る。
 《われわれの超自然的生活は、労働に背を向けることによって確立できると考えている人は、真の召し出しを理解していないものである。われわれにとっては、労働は聖性追求の特別の手段であり、われわれの内的生活―――社会の中における観想生活―――は、われわれ各人の外的な労働の生活のなかに、その源泉と推進力がある。》
 2代目の教団代表者アルバロ・デ・ポルティーリョも次のように語る。
 《エスクリバー・デ・バラゲル師は、人間の仕事とは聖化される現実、聖化すべき現実、聖化する力をもった現実であると、常に繰り返してきました。「オプス・デイ創立当初から絶えず教えてきたことですが、キリスト者は知的労働であれ肉体労働であれ、すべてのまっとうな仕事をできるだけ完全にやり遂げなければなりません。・・・・。こうして仕事は恩寵のレベルに高められ、聖化され、神のみわざ、神の御働きとなるのです」。》
 カトリック教会の中でもドミニコ会のように聖性追及の中で働くことを重視した教団もあったし、他の教団が「働くこと」を無視しているわけではなかろう。しかしオプス・デイはこれを『聖性追求の特別の手段』『聖化される現実、聖化すべき現実、聖化する力をもった現実』とまで断じる。まるで十字架上のイエスの代りに「仕事」がやって来たような雰囲気である。
 もちろんこのような労働観を軽々しくマックス・ウェーバー流に解釈してはなるまいが、必然的に次のような事態となろう。米国マイアミで発行されるヌエボ・ヘラルド紙の2002年11月11日の記事で、ヘラルド・レイェスは次のように報告する。
 《コロンビアのオプス・デイ会員であるセサル・マウリシオ・ベラスケスは、世界中にオプス・デイが急速に広まったことに関して「実を言うとオプス・デイは今の時代にあっているのです」と説明した。「なぜかというと現代の人間は実際に大きな虚しさを感じており、[オプス・デイを通して]自分の存在感を与えられることによりそれが癒されるのです。」ボゴタにあるサバナ大学新聞学部長であるベラスケスはこう主張した。エスクリバーの哲学によると、人間は日常生活のすべての活動に聖化の道を求めなければならない。 「ある人はウォール・ストリートでの仕事を聖なるものにすることができます。」ベラスケスはこのように付け加えた。》
 オプス・デイの会員の多くが欧州と南北米大陸の中~上流階級の有能な人士に集中している理由もうなずける。彼らは神による祝福を身いっぱいに浴びながら、ウォール・ストリートでラテン・アメリカやアフリカの経済を破壊する仕事でも、大規模国際企業の重役室で中南米の貧乏人からなけなしの富を絞り上げて大富豪をますます肥え太らす画策をしていても、テレビ局でプロパガンダを撒き散らしてクーデターを後押ししても、それを完璧に行うことによって、『自らを聖なるものとして完成させている』のだ!
 「自分は神聖なことを行っている」という確信は人間のエネルギーを数倍にさせるものだろう。この「宗産複合体」は、南北アメリカでネオ・リベラル経済を推し進め中南米経済を次々と破綻に追いやった勢力の重要な一端を担っている。この教団が「聖なるマフィア」と呼ばれるゆえんである。

[「良心と信教の自由」]

 「仕事の聖化」の他に、オプス・デイの非常に大きな特徴として「多様性の受容」、特に「他宗派、他宗教の受容」が挙げられるであろう。第2バチカン公会議よりもはるかに以前から、エスクリバー・デ・バラゲーは他の宗派や宗教との融合を目指していたのである。彼は次のように語った。
 《私はヨハネ23世聖下のまことに優しく父のような魅力に触れてこのように申し上げました。「教皇様、オプス・デイではカトリックであろうがなかろうが、常にすべての人のために場所があります。私は教皇様からエキュメニズムを学んだのではありません」。教皇様は感動して微笑んでおいででした。すでに1950年に聖座はオプス・デイがカトリックでない人やキリスト者でない人々を協力者として受け入れることを認めたのをご存じだったからです。》
 ヨハネス23世は、カトリックにフランス革命の理想を移植するシヨン運動に心酔し、同時にシオニズムとイスラエル建国を積極的に支援した人物である。この二人にとって、「十字架のドグマ」に固執し他の宗派や宗教を頑として受け入れようとしない「伝統的カトリック」こそが『共通の敵』だったのである。
 教団のHPによると、2006年現在、オプス・デイには世界80カ国におよそ8万4千人の会員がおり男女はおよそ同数である。会員の中に階級は存在しないがいくつかの集団に分かれている。会員の70%が「スーパー・ヌメラリー」と呼ばれる信徒で、仕事と家庭を持ち通常の社会生活を送る。また仕事を持ってはいるが独身生活を守る「アソシエイト」、そして教団維持と運営の専門の作業を行う「ヌメラリー」という人々がいる。その「アソシエイト」と「ヌメラリー」の一部が僧職(司祭)を務め、現在およそ1800名と言われている。この教団は基本的に世俗集団である。
 そしてこの教団の大きな特徴として「協力者」と呼ばれる人々がいる。『オプス・デイには属していないけれどもその活動に賛同し、属人区の信者と共に教育や福祉、文化的社会的事業を実現するために援助の手を差し伸べる人々』とされ、カトリック以外の宗派、非キリスト教徒、中には無宗教の人もいる、ということである。このようにこの教団は非常に柔軟な広がりを持っているのだが、こういった性格上、「協力者」の人数や構成員は厳密には突き止めようがない。
 たとえばスペイン前首相のアスナール夫妻は「正式な会員ではないが熱心なシンパ」つまりこの「協力者」に属している。フランスのベルナデット・シラク大統領夫人も同様であるとされ、イタリアのベルルスコーニ前首相も「極めて親しい筋」と言われる。シェリー・ブレアー英国首相夫人にもこの教団に「近い筋」という評判が高い。ただどこまでが「協力者」なのかは、外部からは判断が非常に困難である。教団の思想や方針に対して実際にとる言動、会員と判明している人々との人的・経済的・政治的なつながりなどによって見分けるしかない。
 それはともかく、オプス・デイの活動が他の宗派から他宗教の信者、無宗教者、無神論者までをも柔軟な形で巻き込むものである点は非常に重要だ。それは、「原罪と十字架のドグマ」をほとんど感じないほどに水で薄め「仕事を通しての聖性追及」という特に仕事に生きがいを感じる現代の中産階級に幅広く受け入れられやすい指針を打ち出したことのほかに、もう一つの大きな教義上の柱によって可能となる。それが「良心と信教の自由」である。
 これが第2バチカン公会議における最大のテーマの一つであったことは言うまでもないが、単に「社会の実情にあわせたカトリックの修正」という以上に、「宗教そのものの新たな枠組み」を目指すものであったはずだ。
 伝統的なカトリックでは「神の前の平等」は要するに「等しく原罪を背負っている」ということであり、「十字架上のキリスト」の意味を認めない「良心」などは存在しなかったのである。ここから離れた「良心」を認めるとすれば、必然的に「原罪と十字架のドグマ」を目に見えない場所に追いやる以外に無い。そしてこの点は、唯物論的感覚と現世主義、自由と平等を自明の理として受け入れている現代の西側世界の人間にとっては、非常に受け入れやすいことであるに違いない。
 ここに第2バチカン公会議とオプス・デイの「革命性」があるのだろう。私が映画「ダ・ヴィンチ・コード」を『基本的にこの教団の思想を傷つけるものではなかった』と考えるのは以上に述べたことからである。今さら「十字架上の死」を否定されても、この教団にとってほとんど何の意味も無いのだ。
 逆に、オプス・デイ自身が言うように、今までこの教団に関心を持たなかった人々が彼らのHPを訪れて「カトリックにこんな斬新な教団があったのか」と驚く人が増えるならば、彼らとしてはまさに笑いが止まるまい。

[この道はどこにたどり着くのか?:第10部のまとめと次回予告]

 オプス・デイを、その政治的な人脈や性道徳などでの「保守性」をもとにして『保守的カトリック』と呼ぶとすれば、それは根本的な誤りである。彼らは保守的どころか本質的な意味で「革命的」なのだ。それ以前のカトリックから見るともはやキリスト教と呼べるものですらあるまい。事実、伝統固執派のカトリック信徒はこの教団をそのように見ているようである。
 だとすれば、オプス・デイは何に向かって進んでいるのだろうか。その会員にとって聖書と並び、あるいはそれ以上に読まれているのがエスクリバーの「道(スペイン語原題El Camino)」である。この道はどこにたどり着くというのか。
 このシリーズでは、今までずっとこの教団の過去から現在までの姿を追ってきた。次回はその未来の姿を予想してみたい。それが世界全体の未来と危機的に深く関わっていると考えるからである。

第11部:オプス・デイの思想とその方向(中)

http://bcndoujimaru.web.fc2.com/archive/Holy_Mafia_Opus_Dei-11.html

(2006年10月)

[危機に瀕するイスラエルと米国]

 9・11事変以後、米国とイスラエルはほとんど「自滅的」とすら思える稚拙な軍事行動を繰り返している。奇妙なのはシオニスト=ユダヤ勢力に牛耳られるマス・メディアの動きである。この両国に対してイスラム教徒のみならず世界中の非難を呼び起こすに十分な映像や情報を、実に適切なタイミングで世界に向かって披露しているのだ。イラク戦争の開戦理由のデタラメぶり、グアンタナモやアブグライブの収容所での拷問と虐待、イラクやパレスチナ住民に対する残虐行為と無差別殺戮、等々。
 現在その矛先は次第にイスラエルの存在に向けて照準を合わせつつあるように思える。2006年6月、極めて疑惑の多い「兵士誘拐事件」をきっかけに突然開始されたガザおよびレバノンへの野蛮極まりない攻撃は世界に多くの「反イスラエル」の潮流を作り出しつつある。化学兵器やクラスター爆弾、劣化ウラン弾の使用以外にも、人体を内側から破壊する新兵器が注目を浴び、白燐弾の使用をイスラエル自らが認めるに至って世界中の憤激を引き起こしている。その上にイスラエルはレバノン沖のドイツ軍艦船を不明確な理由で砲撃したと伝えられる。
《2006年夏のレバノンへの残虐な攻撃についてはこちらの記事を参照のこと。》
 これらのイスラエルの行動により、以前ならこの「ホロコースト被害者」に遠慮して発言を控えてきた論者や報道機関、左翼関係者までもが、イスラエルとシオニストに対する告発や疑問を表明するようになっている。
 2005年秋のアーマディネジャッド・イラン大統領による「イスラエル抹消」「ホロコースト否定」発言に始まり、2006年3月には米国保守派の論客ジョン・ミアシャイマーとスティーファン・ウォルトは米国「イスラエル・ロビー」に対する異例の告発を行った。一方で9・11事変の裏側にネオコン=シオニスト勢力の影を見て取る人々の数は世界中に着実に増えている。
 国内でも、レバノン侵攻の失敗を巡る政府への不信に加えカッアブ大統領のセックス・スキャンダル、オルメルト首相夫人の住宅売却スキャンダルが重なって政治中枢部が大揺れとなり、ついには大手新聞ハアレツ紙が『存在の危機に瀕する国家』(2006年9月3日記事)とまで書き立てるに至る。ハアレツは欧州の新聞が「イスラエルの消滅」を合理的な「作業仮説」としていることを紹介しながら、現在の危機的な状況に対して警告を発しているのだ。
 またイラン大統領の他に、チャベス・ベネズエラ大統領はイスラエル人の入国を事実上禁止する処置を取った。今後もしこの国が新たな戦争を起こし今まで以上の虐殺と残忍な攻撃を繰り返すようなら、もはや「ホロコースト」を用いての脅迫が次第に通用しなくなる可能性が高いと言えるだろう。
 一方の米国では、9・11後に作られた『愛国法』に加えて今年10月には「大統領の判断次第で、容疑者が憲法による保護を一切受けることなく不法敵性戦闘員とされ、軍に無期限拘束されることを許す」軍事法廷設置法(MCA : the Military Commissions Act)が効力を発することとなった。これによってこの国はいつでも好きなときに軍と諜報当局によるファシズム国家としてのスタートを切ることができる法的な体制を整えてしまったのだ。「自由と民主主義の米国」は断末魔の悲鳴を上げつつある。
 米国といいイスラエルといい、早々と国家としての衰退期を迎えたようだ。いわば「生きながら死臭を漂わせている」状態である。

[ローマとユダヤに支配される米国]

 ここで注目すべきは米国最高裁判事の面々であろう。どのような法案に対する違憲審査もこの最高裁判事の手に委ねられているのだから。実は9名の判事のうち5名がオプス・デイの会員あるいは近い筋の「保守的カトリック」と見なされているのだ。以下にその氏名を挙げ指名した大統領を( )内に記しておく。
 アントニン・G.スカリア(レーガン)、アンソニー・M.ケネディ(レーガン)、クラーレンス・トーマス(G.H.W.ブッシュ)、ジョン・G.ロバーツ(G.W.ブッシュ)、サミュエル・A.アリート(G.W.ブッシュ)。
 「案の定!」といったところだが、オプス・デイが1980年代からいかに米国の権力中枢に浸透していたのか一目瞭然である。国家制度の根源たる『法的判断』をその手に握られた米国はもはや彼らの思うとおりに動かされる以外にはあるまい。
 ついでに他の4名の判事を言うと、ステファン・G.ブレイヤー(クリントン)とルース・B.ギンスバーグ(クリントン)の2名はユダヤ人、デイヴィッド・H.ソウター(G.H.W.ブッシュ)が英国国教会、そしてジョン・P.スティーヴンス(フォード)だけがプロテスタントである。
 しかもこのスティーヴンスは85才を超える高齢でありじきに次の判事に入れ替わるだろう。もしそれがブッシュ政権下ならオプス・デイ系列の人材、民主党の大統領施政下であればシオニスト系ユダヤ人である可能性が高いと思える。
 確かにカトリック信徒は米国では総人口のおよそ30%、キリスト教徒のなかで39%を占める大勢力ではあるが、オプス・デイ関係者ともなるとはるかに小さな割合であろう。ましてユダヤ人は人口の2%に過ぎない。そして国の政治・法曹・経済の中枢はこのどちらかの勢力に握られているのだ。
 相も変わらず米国を「プロテスタントの国」などと考えている人々の思い違いのはなはだしさは明らかであろう。この国はローマ(オプス・デイ)とユダヤによって運営されているのである。

[バチカンはシオニストと心中する気か?]

 一方で、教皇ベネディクト16世のバチカンは見苦しいまでにイスラエルとシオニストへの擦り寄りを見せる。2005年の就任直後から「イスラム・テロ」への敵対心を顕にし、2006年1月にはイスラエルの「生存権」を主張、同年4月にオプス・デイの運営する雑誌がモハメッド風刺漫画を掲載、5月にはベネディクト16世がアウシュヴィッツを訪問し「(ユダヤ人に)許しを請う」声明を出した。
 そして9月に入り教皇は、イスラム教を暴力容認の邪悪な宗教と認識しているとも受け取れる発言をして、イスラム教徒を派手に挑発した。問題が世界中に拡大するのを見て彼は慌てて「謝罪した」のだが、事の顛末はまことに奇妙である。この発言はイスラエルがレバノンとガザへの攻撃で世界中の非難を浴びた直後だったのだ。そしてこのスッタモンダをすぐさま世界のマス・メディアが大々的に報道した。
 イスラエルや米欧のネオコン=シオニスト勢力とともにローマ教会が、イスラエルの言う「第3次世界大戦」の主役の一つとして躍り出たのである。前任者のヨハネ・パウロ2世がイスラム教徒との敵対を避けイラク戦争への反対を表明したこととは随分の違いだが、これではカトリック信徒の中でさえ「ローマ離れ」を引き起こしかねまい。
 その騒動に紛れて教皇の愛弟子で陰の実力者であるクリストフ・シェーンボルンが「知的計画による生物進化」をバチカン内で審議した。この枢機卿は2005年4月に「キリスト教徒のイスラエル支持はホロコーストの罪悪に基づくものではない」「キリスト教徒はシオニズムをユダヤ人に対する聖書の命令として承認しなければならない。」と発言している。その数ヶ月後にイラン大統領が「ホロコーストの結果をどうしてパレスチナ人が背負わねばならないのか」という正論を世界に叩きつけたのだが、バチカンのイスラエル支持はもはや「神がかり」の粋に達している。
 これでバチカンの位置付けが明らかになったわけだが、しかし米国とイスラエルが次第に腐臭を放って崩れ落ちていくとしたら、やはりバチカンもそれらと運命を共にするのだろうか。特にイスラエルの問題はバチカンにとって命取りにすらなりかねない。今後あの国が米国と共に従来以上に毒々しい憎まれ役、いわば「完成版ナチス」として悪魔の所業を世界に見せ付ける可能性が高いからである。その結果イスラエルは滅亡し米国は世界に対する相対的な支配力を失って「引きこもり」の専制国家として衰退していくだろうし、すでにそうなっても良い演出が徐々に為されつつある。そしてローマ教会もその2千年近い歴史を閉じることになるのだろうか。

[「バチカン=イスラエル以後」に備えるオプス・デイ?]

 しかしひるがえって考えてみるならば、そのようなローマ・カトリックの運命は第2バチカン公会議ですでに決定していたのかもしれない。いずれローマはエルサレムに取って代わられるのだろう。あのシヨン運動を前にしてシャルル・モラスが予言したようにである。そして前世紀の初期にピオ10世が発した次の警告がよみがえってくる。(聖ピオ10世司祭兄弟会の翻訳による)
 《そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も持ち合わせず、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、自由と人間の尊厳の名のもとに(もしもそのような「教会」が成り立っていけるならば)合法化された狡知と力の支配ならびに弱者および労苦するものらへの圧迫を世界にもたらしてしまうでしょう。》
 この『世界統一宗教』の総本山がローマにある必要などどこにも無い。私は第9部 で次のように書いた。
 《2006年になってイスラエルのアシュケナジ・チーフ・ラビであるヨナ・メツガーはチベット仏教のダライ・ラマに対して、世界の宗教家の代表による「宗教の国連」をエルサレムに設立することを提案した。ダライ・ラマは即座に歓迎の意を表したのだが、この場にはイスラム聖職者、およびローマ教会と非常に親しい米国ユダヤ人協会のラビ・デイヴィッド・ロウゼンも同席していたのである。》
 ただその実現のためには巨大な障害を乗り越えなければならない。それが、実を言うとシオニズムとイスラエルなのだ。人種主義に凝り固まるシオニストとイスラエル当局がエルサレムを「世界に開放された宗教の中心」にするのに同意することは到底考えられない。2003年7月にイスラエルの元首相シモン・ペレスは、エルサレムを『世界政府の首都』とし国連事務総長を『市長』とするように提案した。しかしイスラエルは一貫してローマが加わる「国際化」に抵抗を続けているのである。
 現首相のエフッド・オルメルトは元々が排外主義的色彩の特別に強いリクード党の幹部でなのだ。そして現在の混乱の中で再びその存在感を強めつつあるベンジャミン・ネタニヤフはその最右翼として知られている。彼らがイスラエルを運営する以上そのような計画の実現を許すとも思えない。ましてホロコースト・プロパガンディストでユダヤ至上主義者のエリー・ヴィーゼルが新大統領になったら、イスラエルはエルサレムを開放するどころか、本当にアル・アクサ・モスクを破壊してソロモン神殿の再建までもやりかねないだろう。
 ここで一つの恐ろしい予感が沸き起こる。もしイスラエルが戦乱の中で崩れ落ち、中東一体が死体と瓦礫以外は見えない焼け野が原となり、その後に廃墟と化したエルサレムを再建するという名目で「新エルサレム」を建設するのであれば、そこを「世界の宗教の中心」とすることは可能だろう。そしてそれは同時に、すでに米国とイスラエルの影響から脱した国連が形作る『世界政府』の首都となる・・・。
 単なる幻覚にしては余りにも生々しい。シオニスト・ユダヤ勢力の手の内にあるはずのジャーナリズムで公然と「イスラエルの滅亡」が語られ、また「ユダヤのタブー」が様々な箇所で打ち破られつつある。その中でイスラエル自身が米国とともに悪魔的な「世界の暴力装置」としてその牙を剥こうとしている。今後この2国の暴走で地中海東岸からペルシャ湾岸にかけては壮絶な戦いと殺戮の場になっていくのかもしれない。そうなると世界中でシオニスト・ユダヤ勢力とそれに抵抗する勢力との様々な側面での戦いが繰り広げられ、次第にシオニストは追い詰められていくだろう。
 もちろんだが、米国やイスラエルといった虚構と暴力で世界を支配しようとする無法国家はやがてその化けの皮をはがされ惨めに打ち捨てられなければならない。人間は欲や無知や怯堕とともに理性とも共存している。いつまでも嘘の中で生きるわけにはいかないのだ。しかしそれが新たな虚構の始まりにつながるものかもしれないことは同時に見抜いておかねばならない。
 バチカンが『世界統一宗教』の単なる「ローマ支部」となるときが来るのなら、それは第2公会議の必然的な帰結であろう。あの会議を推進した勢力の最終目標はそこにあったはずである。そしてオプス・デイはその勢力の中心部にいたのである。とすれば彼らがすでにその準備を十分に整えていないわけはあるまい。

[「道」の行方、そして第11部のまとめと次回予告]

 前回までに申し上げたように、バチカンはナチスとシオニストの両方に手を差し伸べ、ナチス残党を南米に送り込むと同時にユダヤ=シオニストの利益に沿って第2公会議を開催した。私はオプス・デイを、バチカン中枢部がその「世俗部隊」として手塩にかけて育てた組織ではないかと疑っている。イエズス会のような僧侶中心の集団では実現不可能なことをこの教団によって実行させるためである。
 それは世界の全面支配を、つまり政治面、経済面、法曹面、宗教・思想面、軍事面、情報面における文字通りの全面支配を実現させることに他ならない。オプス・デイにはそのすべての面がそろっている。彼らは単なる宗教集団ではないのだ。バチカン中枢部にとっては、歴史の中の奇形的な一側面でしかない近代社会の政教分離の原則など、何の意味もないであろう。
 彼らにとってローマという「カトリックの牙城」はもはや手狭となった「古巣」以外の何物でもあるまい。ちょうどサナギを破って出てくる蝶のように、おそらくモスラのような怪物だが、新しい世界の新しい完璧な支配者としてその姿を現わそうとしているのではないか。バチカンはローマ帝国の延長なのだ。
 エスクリバー・デ・バラゲーの『道』はどのような世界に我々を連れて行こうとしているのか。次回はこの「聖なるマフィア」シリーズの最終回として、『世界統一宗教』の姿とその本性を探ることとしよう。

第12部:オプス・デイの思想とその方向(下):《地上天国》への「道」

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(2006年12月)

[宇宙の支配原理たるキリスト]

 大多数の日本人が持つキリスト教観はおそらく「愛の宗教」「救いの宗教」だと思う。しかしこれは外国のものを何でも善意で受け入れるおおらかな民族性による脚色であろう。あるいは教会のプロパガンダをそのままにイメージしているに過ぎまい。
 私はこのシリーズの第10部 で次のように書いた。
 《本来のキリスト教は決して「愛の宗教」ではない。自らを絶望の淵に追い込みその絶望にすら見放された末にたどり着いた仏陀の悟りにも通じるところがあるかもしれない。聖パウロの「イエスの十字架上の死」に対する絶対的な信頼は、この「自らの内なる罪」への徹底したこだわり無しには到達し得ないものなのだろう。本来のキリスト教とは「罪の宗教」なのだ。》
 しかしこれとても、真摯にその意味を突き詰めより深い信仰の世界に入ろうとする人々にとっての教義であり、社会的、政治的、経済的に実体を持つ組織宗教としての本質的な姿とは言いがたい。ローマ法王庁が信仰者に「罪の宗教」を教えながら自らその教義を遵守してきたとは到底思えない。
 南欧カタルーニャの首都バルセロナに中世キリスト教美術が集められたカタルーニャ美術館がある。その最高傑作が、国連世界遺産にも指定されるピレネー山中ブイー渓谷にある簡素なロマネスク様式の教会サン・クリメン・ダ・タウイュ(Sant Climent de Taüll)の祭壇(アプス)の内壁を飾っていたキリスト像(12世紀前半)だろう(右の写真)。バルセロナに展示されているのが本物で、現在この教会のアプスの壁には模写が飾られている。
 大勢の聖人に囲まれ「神の言葉」を捧げ持って中央に鎮座するキリストの姿は到底「愛のキリスト」でも「救いのキリスト」でもありえない。その聖座は宇宙の中心であり、威厳に満ちたその視線は祈る人々に注がれるのではなく、キッと見開いた目が虚空の彼方を激しくそして冷然と見据えている。
 これは《全宇宙の支配者》としてのキリストの姿に他ならない。これほど見事にこの宗教の本質を表現した作品は他に無いだろう。それは「愛」でも「原罪と救い」でもなく『宇宙の支配原理』だったのである。
 この点はチンケな「万世一系のスメラミコト」の貧弱な哲学しか持たぬ我が日本民族には想像すら及ばぬ点であろうと思われる。権力が唯一絶対神と手を結んだ場合、それは必然的に「この世の全てを支配する」方向を持たざるを得ない。ここに「信仰者にとっての」ではなく「支配者にとってのキリスト教」という重大な側面を見落としてはなるまい。サン・クリメン・ダ・タウイュ教会が作られたのは、ローマ法王庁に神の権威を授かったキリスト教徒の王達と貴族達によるイベリア半島のレコンキスタ(再征服)が最も激しかった時代だったのだ。
 もう一つのことを強調しておかねばならない。イベリア半島で支配権を獲得しつつあるキリスト教国の王達の側には必ずと言ってよいほどユダヤ人の集団があった。ルネサンス以後のいわゆる「宮廷ユダヤ人」が登場する以前の話だが、より完璧な支配を目指す王達にとってキリスト教とユダヤ教は常に表裏一体、いわば「シャム双生児の姉妹」だったのである。前者からは聖なる教会を通して土地と人民の支配権を、後者からは商業と交易を通して富の支配権を受け取っていた。しかしイベリア半島再征服以後にユダヤ人を切り捨てることによってスペインは没落の運命を決定付けられ、諸王に唯一神の権威を授けてきたローマ法王庁は宗教改革に苦しむ時代に突入する。
 そして資本を操る者達が支配権を握る時代に再びローマはユダヤと「シャム双生児の姉妹」となった。「唯一絶対神」はキリスト教だけでもユダヤ教だけでも『宇宙の全面支配』を果すことはできない。支配原理を前にして、彼女らは一体のものとしてふるまわざるを得ないのだ。

[政治そのものである「左右の宗教」]

 現在、世界政府と統一宗教による『世界帝国』が我々の目の前で徐々にその姿を現しつつあるようだ。新約聖書に含まれる謎の書簡「ヨハネ黙示録」および「小黙示録」とも言われる福音書の一節(マタイ24章)は、その世界全面改造の『手引き書』の役を果しているのかもしれない。だからこそそれは予言ではなく「預言」と言われるのだろう。米国国務長官コンドリーサ・ライスが、2006年6月~8月のイスラエルによるレバノン・ガザ攻撃に関してさりげなく口に出した「産みの苦しみ」は、実はこの「小黙示録」の一節なのだ。あの軍事目的とは無関係な無差別住民虐殺の果てに、一体何が「産まれる」と言いたいのか。
 ネオコンの「教祖」とされるレオ・シュトラウスに言われるまでも無く、またマルクスの言葉を借りるまでも無く、宗教は民衆支配に必要とされる阿片であろうし、同時に支配の方法論でもある。ここで宗教は大きく二つの異なる顔を見せることになる。いつの時代でも政治とはまさしく「まつりごと」でありどのような形であれ常に信仰・崇拝・神話・儀式と一体化しているのだ。
 私は第6部 で次のように申し上げた。
 《9・11「テロ」事件の少し後のことだが、ペンシルバニア選出の米国上院議員(共和党)でオプス・デイとも縁の深いリック・サントラムは、米国の雑誌「ナショナル・カトリック・レポーター」に次の奇妙な見解を語った。「私はジョージ・W.ブッシュ氏を『米国で始めてのカトリック大統領』だと見なしている。」
 もちろん実際には米国初のカトリック信徒の大統領はJ.F,ケネディなのだが、サントラムは、ケネディが個人的な信仰と政治的な責任との間に区別をつけたことを非難する。ケネディは、もしも大統領に選ばれたらカトリック教会の命令には従わない、と宣言したのだが、サントラムに言わせるとこれが『米国に非常な害悪をもたらした』のである。彼の頭の中には政教分離という用語は存在しない。政治的理念と宗教的信条が一致した「神権政治」がこの上院議員の理想であるようだ。》
 リック・サントラムはこの教団の「親しい友人」であり、2006年1月にシオニスト団体やプロテスタント原理主義団体の代表者と共に、オプス・デイ会員と疑われるサミュエル・A.アリートを最高裁判事として承認するようにG.W.ブッシュに迫った。その結果、現在、米国の司法権の最高機関がオプス・デイ周辺の勢力によって抑えられていることは前回お伝えしたとおりである。
 もちろんユダヤ・シオニズムは宗教ではないが常に擬似宗教的な姿をとる。「選民ユダヤ」と「ホロコースト」の強烈な神話に支えられ無条件に信奉する姿はむしろ宗教により近いものであろう。米国にはすでにカトリック、プロテスタントとシオニズムという異なる宗教・思想を串刺しにする『磁針』が置かれている、と見るべきである。
 同時にまた、次の点を注意深く認識しておかねばならない。現在の米国共和党政権がたとえ民主党に代わっても、その『磁針』はより巧みに幅広い階層を貫くべく強化されたものとなるだろう。
 2006年11月の米国中間選挙で両院の過半数を獲得した民主党だが、その実質的なリーダー格であり下院議長となったナンシー・ペロシは米国とイスラエルを結ぶ最も太いパイプの一つであると同時にイタリア系のローマ・カトリック信徒である。マイクロソフトやアマゾン、AT&Tに出資する大富豪である夫も同様であり、そしてその家系は複数のユダヤ系富豪と親族の縁を結んでいるのだ。
 また彼女は米国議会の諜報部会の幹部でもある。この諜報部会の副委員長は長年デイヴィッド・ロックフェラーの甥で上院議員のジェイ・ロックフェラー(民主党)が勤めている。当然のことながらこの男はペロシと共にブッシュを支えて米国をイラクとの戦争に突入させた極悪人どもの一人である。彼らの「イラクからの撤退」は選挙用の宣伝文句、単なる目くらまし以上のものではない。
 この民主党を選挙民レベルで支えているのはこれも《信仰》という面では宗教と大差の無いリベラル・左翼主義であり、同時に左派シオニズムである。冷戦中にあの悪名高いイエズス会が「解放の神学」派を作り左派としてオプス・デイを中心とする右派と戦った茶番劇があったが、すべては同じ文脈の上に乗っている。
《注記:イエズス会と「解放の神学」派についてはこちらの記事を参照のこと》
 南北アメリカ大陸で「オプス・デイはカトリック右派である」「保守派である」「復古主義者である」などといった迷妄を振りまいているのが主として左派・進歩派の人々であることに注目しなければならない。またその右派は、米国民主党とその支持者について「極左(?!)」「もし左翼が跳梁すれば我々の知っているアメリカはその存在をやめてしまう」などとおだて上げる。要するに右と左は共同して煙幕を張り巡らせているだけなのだ。当事者達が真剣なだけに滑稽さすら覚える。
 ユダヤ右派の巣窟AIPACとイスラエルの右派がリベラルのペロシなどと緊密に結び付いており、左翼知識人の代表格であるノーム・チョムスキーがイスラエル・ロビーの弁護に狂奔し、ウエッブ上で左翼オールタナティヴが911とイスラエルとの関係を頑固に否定し、右も左も神話として機能する「ホロコースト」を堅持しているのを見れば、その仕組みが手に取るように分かる。
 また米国大統領ブッシュを「悪魔」とまで罵倒するウゴ・チャベスのベネズエラだが、その社会主義政権の背後にはベネズエラの石油輸出業務で巨万の富を稼ぎ「ボリバル主義のブルジョアジー」と呼ばれるイタリア系の大資本家ウィルマー・ルパーティがおり、ベネズエラが運営する国際衛星放送テレ・スルにはイエズス会人脈が見て取れる。ウォール・ストリートがそれと対立しているのは、《対立》が必要だからであろう。
 さらに現在、プーチンによってロシアから追い出されたシオニスト・ユダヤ人大資本家たちによってどうやら「第2の冷戦」が画策されているようだ。その中では「911ロシア陰謀説」まで飛び出している。対立と紛争こそが多くの価値の創造主なのだ。彼らはこの点を知り抜いて謀略を巡らせる。
 そしてそれらの対立や野合には地球上の全人類をその標的とする支配への意思が貫かれているのである。

[「神権政治」の正体]

 既存の文脈に囚われない頭脳とデータ収集と注意深い観察が、『雲の上』から伸びてくる《左右の手》の動きを垣間見ることを可能にさせる。しかしこの『雲の上』に関しては多くの混乱がある。世の中にはフリーメーソンだのイルミナティだのイエズス会だのをそこに据える人たちがいる。中には「爬虫類人」や「異星人」まで登場させる素晴らしい空想力の持ち主もいるようだ。しかし私はこれらには与しない。実際はもっと単純なのではないか。要するに「王様は裸」なのだ。それに様々な《服装》をかぶせようとする人たちはきっと裸の姿を隠そうとする王様の側に立っているのだろう。
 オプス・デイの教義内容および宗教上の主張をレオ・シュトラウスの弟子どもの唱える哲学や政治思想と比較してみると、非常に興味深い共通点が発見できる。両者ともに、一つの同じ事柄に対して触れないように、細心の注意を払っているのだ。
 彼らは「教」を語りまた「政」を語る。しかし「財」に関しては常に真っ白な穴が開いているのだ。しかしその両者とも巨大な財源をバックにして活動していることは世界中の誰もが確認できよう。レオ・シュトラウスの弟子どもによると未来には「哲学者」が世界を治めることになるそうだが彼らに給料を払うのは一体誰か? オプス・デイの唱える「聖化される仕事」によって生み出されるものは何か?
 この点は統一教会など巨額の資金を動かす宗教団体に共通する。彼らの教義に唯一登場しないものが共通して『カネの出所と行く先』なのだ。シオニズムにしても同じことが言える。いやそれ以前に、公式の歴史家たちはナチス・ドイツに投資した《世界中の》資本家のリストを作ろうとしない。スターリン・ソ連にしても同様である。どうやらそれらに触れると困る事情でもあるようだ。そして、まるで「哲学やイデオロギー」「個人の意思と情熱」だけで国家が支えられ世界が動かされるかのような幻覚が、右から左までのあらゆる論調の中に蔓延している。
 もっと身近な点に触れよう。世界中の学校で使われている歴史教科書で、数々の戦争のために消費された費用と物資について書かれたものはあっても、そのカネを『出資して膨らませて受け取った者』について述べている教科書を誰か見たことがあるだろうか? 世界の国々で教科書の記述内容に関する議論は多いが、面白いことにこの点についてだけは誰一人として疑問の声を挙げようとしない。
 もう明らかだろう。非常に単純な話である。世界には何一つ「秘密」も無ければ「陰謀」も無いのだ。歴史と現代世界の記述には巨大な《空白》が丸見えである。そこに「神がいる」からなのだ。「神の名」は語ってはならず、「神の姿」は見てはならない。単にそれだけの話である。
 しかりしこうして、世界はもう随分と以前から立派に一つの宗教によって動かされているようだ。その神を『マモン(財神:もちろん超自然的な存在ではない)』と呼ぶ。まさに《神権政治》であろう。
 それは対立と紛争を要求し対立する双方に資本を注ぎ双方から利子付きで回収する。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返せ」。なるほど。そのカイザルたちが「神の使用人」であれば全てに筋道が通る。対立する者達はまさに「天に宝を積んでいる」のである。そしてこの『神』の下に、表と裏の種々の利権団体と謀略組織を通してありとあらゆる人間の悪徳が発揮されるのだ。
 この『神』は、伝統的カトリックが説く「父と子と聖霊の三位一体神」ならぬ『金力・暴力・情報力の三位一体神』 なのだ。その姿は20世紀の歴史の中から明確に見て取ることができよう。
 自由経済でカネとモノを作って動かし消費させて回収する、そしてそれを保証する権力構造が「公的」および「民間の」暴力装置によって維持され必要に応じて改変されるのだが、その大原則は『アメとムチ(利益誘導と脅迫)』『分割しそして支配せよ(謀略とコントロール)』である。
 しかしそのためには何よりも、その支配民に対してメディアや様々な宗教・文化機関、学者・知識人による情報操作と観念操作が極めて大規模にしかも効率よく行われる必要がある。その大原則は『知らしむるべからず、寄らしめよ(情報の隠蔽・捏造と神話化)』であり、これが彼らをして「雲の上」の存在たらしめるのである。その意味で、この機能こそがあの『聖なる三位一体』の中核を成すものだろう。
 現在この『財神』を奉じる少数派の者達が、全世界を恒久的に支配できるシステム作りとそのための世界改造の仕上げ段階にかかろうとしている。彼らの中には、古くから『財神』の神官であるユダヤ系巨大金融資本家群だけではなく、彼らとの縁も深く現在は資本家の一群と化している欧州の王族や貴族、各国の産業資本家とそれぞれの番頭役たち、血族化した政治家集団および軍エリート、法律と経済のテクノクラート、科学者と技術者の集団、巨大マフィア集団、巨大メディア産業と御用知識人たちがおり、そしてその上に、それらの全てに通じ最も効率の良い観念・心理操作マシンであると同時に無条件な集金マシンの役を受け持つ巨大宗教組織が加わる。
 その中でもバチカンは、「米国化」と「ユダヤ化」を経て、もう十分に『マモン崇拝システム』の中心として機能できるだけの変化を遂げてきた。その中枢に食い込んでいるのが「聖なるマフィア」オプス・デイである。それは基本的に在家集団でありその支持者は先ほど述べた全てのカテゴリーに偏在している。というより、最初から各支配者集団間のフィクサーとして作られ育てられてきた。創始者エスクリバー・デ・バラゲーの「道(El Camino)」は全てに通じる道である。このシリーズの第3部 でも申し上げたが、この組織はCIA、MI6、シン・ベトと対等に付き合えるバチカンの諜報機関でもあるのだ。ひょっとするとこの教団周辺に世界改造の「知的デザイナー」がいるのかもしれない。

[世界政府と世界統一宗教]

 2006年12月1日付のGlobal Research誌は、バチカンが政治アドバイザーとしてヘンリー・キッシンジャーを招いたことを報じた。もしキッシンジャーがこの招聘を受け入れるとすると、それは世界政府と世界統一宗教の建設が本格的に始まったことを意味するのかもしれない。
《注記:幸いにしてこの情報は杞憂に終わったが。》
 言うまでも無くキッシンジャーは1973年のチリ軍事クーデターを画策した中心人物である。そして誕生したピノチェット政権をオプス・デイの創始者エスクリバー・デ・バラゲーが直々に祝福した。さらに当時のCIA長官はカトリック教徒でオプス・デイとの関係を示唆されるウイリアム・コルビーだった。その後任がブッシュ(父)なのだが、彼の時代にそのチリで初めてのネオ・リベラル経済の実験が行われた。その後のレーガン=ブッシュ(父)政権時に、後にネオコンと言われるユダヤ人を中心とした勢力と共に、このバチカン勢力が米国を直接に操る力となっていった。それは「属人区オプス・デイ」を公認したユダヤ人教皇ヨハネ・パウロ2世の時代でもあった。
 キッシンジャーの背後に控えているのは言わずと知れたロックフェラー家であり、同じ脈絡をたどっていけばバチカン・ラットラインでナチ残党を米大陸に向かえその後に冷戦構造を固めたダレス兄弟に行き着く。逆に先の方にたどっていけば当然のことながらネオコンの姿が浮び上がるだろう。その中には06年12月に死去したジーン・カーパトリックのようにオプス・デイともつながりの深い人物の姿も見える。そして先ほどのGlobal Research誌記事の標題は『ネオコンがバチカンに?』である。
 巷には「ネオコンは姿を消した」などといった愚論がはびこるが、彼らの米国での役割が一段落しただけであり、各自それぞれの新しい持ち場に付いているだけだ。フランスではネオコンの一派と目されるニコラス・サルコジの政権誕生の色が濃く、ネオコン「建築家」の最も重要な一人であるマイケル・レディーンが着々と準備を進めてきたイランへの攻撃準備が様々なカモフラージュの下で進みつつある。IMFとともに第3世界の破壊とその米欧ユダヤ資本による経済支配の道具に他ならない世界銀行には、その最大の智将ポール・ウォルフォヴィッツがいる。彼らにはより広い舞台が与えられている。
《注記:その後、力の衰えた米国に代わってサルコジのフランス帝国が北アフリカ・中東での戦争策謀の中心になり、その作業は「左翼」のオランデに引き継がれている。またイラン攻撃の可能性は常に扉を開かれている。ただしウォルフォヴィッツは「スキャンダル」を起こされて失脚し別のネオコン・シオニストに取って代わられたが。》
 このドロドロの舞台装置がやがてクライマックスに向けて次第に整理されていくのだろう。しかし長い動乱の果てに現在の国連を母胎にした世界政府が実現したとしても、その治世は「永遠に安定した秩序」などとは程遠いものであるに違いない。そのようなものが決して安定して維持できないことくらい彼らは十分に知っている。2006年現在イラクで行われている「コントロールされるカオス」の実験は将来の世界の雛形であろう。常に発生する矛盾と対立が計画的に適切に制御されるときに、それが逆に全体の安定と形態維持にとって必要不可欠の要素へと変わるのだ。
 そしてだからこそ、マス・メディアによる情報操作と同時に、「人類共通の神話」たる世界統一宗教が必要とされるのである。しかしそれは「高い次元でお互いに同調しあうそれぞれの宗教」の形をとり、決して教義や作法を統一させた「一枚板」の宗教ではないだろう。ここを思い違いしてはなるまい。カトリックはその「ローマ支部」、仏教はその「アジア支部」、イスラム教はその「イスラム支部」、等々、となるのみであり、おそらく全体の安定と形態維持のために対立や矛盾の派生とそのコントロールに対して柔軟に対処できるものとなることだろう。
 『宇宙の支配原理』は決してスターリンやヒトラーのそれのように豪腕で全てを統一するような形で貫かれるのではあるまい。それは少数の支配集団を頂点とした《有機的なある種の生態学》であり、《絶えざるカオス的な変化をコントロールする独占的な技術体系》である。それが全地球規模で確立されるときに、恒久的に安定した「彼らのための地上天国」が誕生する。これが「新しい世界秩序」なのだ。永遠の天国とその下に横たわる永遠の地獄、これがヨハネ黙示録の結論であるし、同時に世界支配の「知的デザイン」の結論でもあるだろう。

[事実を見つめる人間の目]

 『マモン神』についてさきほど『金力・暴力・情報力の三位一体神』 と申し上げた。これを人間の心理的なあり方に置き換えるならば、仏教で教えるところの貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)の『三毒』に他ならないが、その中で第3の愚痴とはつまり迷妄と虚構に従って行動し無明をさ迷う人間の姿である。これこそがあの『支配原理』を可能にする最大の要因である。
 それはいわゆる知能指数の数字とは無関係である。本来ならば何一つ難しいものは無いし誰でも目の前の事実を見ているのだが、それを無理やりに歪め忘れてでも虚構にすがりつく。人間がいかに事実をありのままに見ないものかは、911事件に対する世界の人々の態度で明白であろう。
 支配者となる者達はその点を十分に心得ている。だからこそ第三の『情報力』が『聖なる三位一体』の中心となるのだ。カモがいるからこそ詐欺師がいるのであり、決してその逆ではない。そして牧羊犬の一つの声で一斉に誘導される羊の群れのように、人々は欲や恐怖や幻想に駆り立てられて一つの方向に動き始める。そこでは幻覚が事実の代役を果す。したがって、逆に言えば、この幻覚の正体を明らかにすることこそが『支配原理』に対抗する唯一の手段であろう。
 このシリーズの第2部 で申し上げたことだが、私はスペインの現代史を調べながらある奇怪さに出くわした。フランコ独裁から社会主義者の政権への移行期に起こった諸事実である。これが「聖なるマフィア」を追及し始めたきっかけなのだが、素直に考えたら「おかしいではないか」と思えるいくつもの事実が歴史学者の手にかかると「何もおかしな点は無い」となるのである。いや、「おかしな」点は、「ともかくそれは起こったことなのだからそのまま疑問を挟む必要の無い事実なのだ」という論理に摩り替えられる。そして全く同様の論理が「ホロコースト」「9・11同時多発テロ」で使用される。これはもう詐欺以外の何物でもない。
 私は別にオプス・デイというカトリック教団に対して恩も恨みもあるわけではない。ただこの教団の足取りを追いかけることを通して、我々が「これが現代だ」と思い込まされてきたことに対する再検討を行ってみたいという希望があるのみである。支配者どものたくらみを封じるものがあるとすれば、それは、我々自身が幻覚を追い払い事実をありのままに知り賢く対処できるようになること以外にはあるまい。
 このシリーズはひとまずここで終了とするが、しかし、現代という時代に対する追及は様々な形で引き続き行っていくつもりだ。最後に、私のような無学・無力な者に『真相の深層』誌面という貴重な発言の場を提供していただいた木村愛二氏および関係各氏に深く感謝を捧げたい。(了)

2024-03-14 更新
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